話し手は他者に話しかける(矢印1)、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。
他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印4)。そうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Serge Lesourd, Comment taire le sujet? , 2006)
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◼️Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis, 2016より
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四つの言説 Les Quatre Discours の基礎構造
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四つの言説における本質は、欲望する「動作主 agent」は「他者」に宛てられる(呼びかける)ということである。それは、上部の水平的矢印によって示されている。「動作主」から「他者」への動きにおいて、我々は「社会的結びつきlien social」を作りだす人間の傾向に気づく。
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しかしながらラカンはここで、人間相互関係におけるロマン派的観点の類を表現しているのではない。そうではなく、「動作主」と「他者」との間の関係は、「不可能性 impossibilityという乖離」(Verhaeghe, 2004; Bruno, 2010)によって徴付られていることを強調している。すなわち、動作主が送るメッセージは、意図されたようには決して受け取られない。(…)
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定式の下部は、言説の隠された側面を強調する。左下の最初のポジションは、「真理」である。それは「動作主」のポジションに上方向きの矢印で繋がっている。この矢印が示しているのは、所定の言説において、動作主によって為される全ての言動は、隠蔽された真理に宿っているということである。
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事実、すべての言説の特徴は、抑圧された要素が動作主の言動を動機付ていることである。この抑圧は、言説上部に表象されている社会的結びつきの可能性をもたらす。類似した形で、「真理」は「他者」のポジションに効果を持つ。それを、ラカンは付加的な(斜めの)矢印を描くことにより強調している。(右側の)下方向の矢印は、動作の他者への呼びかけは効果を生むということを示す。すなわち「生産物」が作り出される。この生産物は、動作主に燃料を供給する(右下から左上への斜めの矢印)。しかし「生産物」は言説の動因である「真理」との関係において「不能 impuissanceという乖離」がある。
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主人の言説 Le discours du Maître
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主人の言説においては、主人のシニフィアン(S1) が「動作主」によって形式化される。そして主人のシニフィアンは、知(S2)の手段よって機能すると想定された「他者」に課される。特徴的に、このような支配的動きは、主体的分割($)の抑圧の上に宿っている。そして「生産物」として、他者は対象a のポジションに還元される。
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例えば、心理療法士が恐怖症の顧客に告げるかもしれない、「勇敢になりなさい (S1) 」と。そして患者が恐れる多数の人に直面しなさいと。その要請は、人が集団のなかでいかに振舞うか (S2)についての特定の知を固守することによって、である。
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このような指令的スタイルを適用することにより、心理療法士は、社会的状況における自らの不確定性 ($) を考えないようにする。そして患者は心理療法士に従うことで、社会的相互作用のゲームにおける駒(人質)に還元される。それは最終的にさらなる不満(a) を生産し、新しい指令 (S1)の形成を引き起こす。
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ヒステリーの言説 Le discours de l'Hystérique
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ヒステリーの言説に中心的なあり方は、不平不満 ($) の能動的形成である。そして、主体を悩ます事柄への答え(S1) を持っていると想定される「他者」を探し求める。この言説は「真理」を抑圧している、すべての欲望は癒されえない欠如(a)の上に宿っているという真理を。そして典型的には、ナラティブ(S2) の「生産物」を生み出す。それは根源的欠如(a)を解決せず、さらなる苛立ち ($)を引き起こす。
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大学人の言説 Le discours de l'Université
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大学人の言説は、知 (S2)の発布の上に構築されている。この知は、ドグマと仮定 (S1)の受容に宿っている。しかしこのドクマと仮定は、この言説において無視されている。特徴的に、「他者」は対象a(欲望の対象-原因)の場に置かれる。これは不満($)を生み、さらなる知の創出(S2)を促す。
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分析家の言説 Le discours de l'Analyste
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最後に、分析家の言説において、動作主としての分析家は、論理的に a と表記される、いわゆる対象a として「他者」に直面する。この対象a は、欲動あるいは享楽に関係した残滓を示す。それは名づけ得ないものであり、欲望を活性化する。例えば、分析家の沈黙ーーそれは、相互作用における交換を期待している分析主体(被分析者)をしばしば当惑させるーー、その沈黙は対象a として機能する。
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分析家は対象a のポジションを占めることにより、自由連想を通して、主体的分割($) が分節化される場を作り出す。分析家は、患者の単独性にきめ細かい注意を払うために、患者についての事前に確立された観念と病理 (S2)を脇に遣る。こうして分析主体(被分析者)の主体性 (S1) を徴す鍵となる諸シニフィアンが形成されうる。それは、分析家の対象a としてのポジションを刺激する。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis, 2016,) |
超自我のあなたを遮断する命令impératifs interrompus du Surmoi. は、…声としての対象aの形態 forme de l'objet(a) qu'est la voixをとる。(ラカン, S10, 19 Juin 1963)
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われわれが無闇に話すなら、われわれが会議をするなら、われわれが喋り散らすなら、…ラカンの命題においては、沈黙すること faire taire が「対象aとしての声 voix comme objet a」と呼ばれるものに相当する。(J.-A. Miller, Jacques Lacan et la voix, 1988)
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※参照:資本の言説基本版