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2020年5月21日木曜日

資本の言説基本版

四つの言説基本版に引き続き、資本の言説基本版である。



父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)
主人の言説(父の言説)から資本の言説への移行
危機は、主人の言説ではなく、資本の言説である。それは、主人の言説の代替であり、今、開かれている [la crise, non pas du discours du maître, mais du discours capitaliste, qui en est le substitut, est ouverte.  ]
私は、あなた方に言うつもりは全くない、資本の言説は醜悪だ [le discours capitaliste ce soit moche] と。反対に、狂気じみてクレーバーな [follement astucieux] 何かだ。そうではないだろうか?
カシコイ。だが、破滅[crevaison] に結びついている。

結局、資本の言説とは、言説として最も賢いものだ。それにもかかわらず、破滅に結びついている。この言説は、支えがない [intenable]。支えがない何ものの中にある…私はあなた方に説明しよう…
資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルにS1 と $ とのあいだの。 $…それは主体だ…。それはルーレットのように作用する ça marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが実際はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、自らを貪り食う [ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume]。さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…[vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…](ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972)




◼️Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、2016)による注釈


ラカンは、資本の言説を古典的な主人の言説の現代的変種として捉えている。だが主人の言説に対して3つの「突然変異」がある。

① $ (欲望の主体・言語によって分割された主体)とS1 (主人)は場所替えをしたこと。
② 左側の上方に向かう矢印ーー古典的言説では到達不能の「真理 vérité」を示す--が、下方に向けた矢印に変更されたこと。
③「動作主agent」と「大他者Autre」との間にあった上部の水平的矢印が消滅したこと。
三つの変更の効果は、四つの言説に固有な数多くの障害物が、この五番目の資本の言説の特徴ではなくなったことである、われわれは資本の言説内部で、レースのゴーカートのように、循環しうる。事実、資本の言説において、非関係 non-rapport は回避される。

サモ・トムシック Samo Tomšič は、これを次のように叙述している。

《矢印が示しているのは、資本の言説は全体化の不可能性 (動作主と他者との間の impossible)の「排除」を基盤としていることである。他の諸言説(四つの言説)は、全体化の不可能性に特徴づけられており、それは次の事実に決定づけられている。すなわち、シニフィアンは差異の開かれたシステムを構成するという事実に。》(Samo Tomšič, The Capitalist Unconscious, 2015)
とりわけ、標準的な四つの言説において、「真理」のポジションは、矢印によって標的になっていない。そして「動作主」と「他者」のポジションは、二つの(相互的に関係しない)他のポジションによって影響を受けている。それが、言説の機能を構造的に逸脱させる。資本の言説においては、《S1と$とのあいだの転倒により、車輪にように動く。こんなにスムーズに動くものはない。だが実際はあまりにはやく動く。自らを消費する》(ラカン、ミラノ講演, 1972)
実際に、資本の言説の構造的特徴は、四つのポジションは元のままでありながら、矢印によって作り上げられる進路は変わっている。すべてのポジションに一つの矢印が到達する。従って、矢印の閉じられた円環が形成される。四つの言説を特徴づけていた構造的逸脱は、見出されない。言わば車輪のように廻る(無限∞の形になっている)。

ラカン が示唆していることは、…資本の言説において、主体性は腐敗するということだ。これについての主要な構造的理由は、$ と a との間の距離が喪われていることである。すなわち、剰余享楽に固有の、主体を混乱させる身体上の緊張との距離の喪失である。この主要な構造的理由は、資本の言説において、主体$と剰余享楽aに間に距離の喪失である。この言説において、剰余享楽に固有の身体的緊張が主体を混乱させるのである。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、2016)



$からS1への動きは、主体性分割の構造的質の否認 denialを示している。一方で資本の言説は主体性分割($)から出発している。しかし他方でS1 (主人のシニフィアン)に向かう動きが示唆するのは、主体性分割は主人のシニフィアンとの同一化(疎外化)を通して、乗り越えうるということである。これが物語っているのは、倒錯的動作である、《倒錯者は、大他者のなかの穴を穴埋めすることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre》(ラカン, S16, 26 Mars 1969)。資本の言説において、S1は、主体の穴を補填するように注意深く促している。

どちらの場合も、主体の穴は矯正可能だと見なされている。この理由で、資本の言説は「一般化倒錯 perversion généralisée」の用語でしばしば叙述される (Mura, 2015)。この解釈の流れのなかにあるものとして、ラカンは資本の言説の基盤には象徴的去勢の拒否を想定している、《資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは「排除Verwerfung」、すなわち象徴界の全領野からの「拒否 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除 rejet de la castrationである。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

資本の言説論理内で、主体性の核にある欠如(去勢)は、シニフィアンの使用による構造的帰結とは見なされない。そうではなく、需要と供給の市場内部で治癒されうる事故的欲求不満と見なされる。各人の不平不満にとってS1 の存在の想定は、この言説のなかに深く染み込んでいる。結果として、資本の言説は欲望の個別化particularizationを意味するようになる。欲望をあたかも要求のように扱うのである。
一方で、古典的言説において、欲望は単独的 singularであり、シニフィアン(表象)の手段によっては解決されえない。他方、資本の言説が示唆するのは、主体性分割を扱う個別の解決法である。すなわち、市場が消費者の要求を満足させるためにそこにある。結果として、資本の論理は、搾取へと導く、《欲望の搾取 exploitation du désir、これが資本の言説 discours capitalisteの大いなる発明である。》(ラカン、Excursus, 1972)

資本の言説は、実践的な解決手段によって応答される特定の問いとして欲望を扱い、欲望を搾取する。資本の言説の時代の超自我の命令の特徴は、消費を通して欲望を満足させるという義務にかかわる (McGowan, 2004)。市場は製品とサービスの絶え間ない流れを提供する。人はそこで自らの要求の答えを見いだす。…しかしながら、後に見るように、これは主体性の核において所定の代価を支払わねばならない。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、2016)

ここでStijn Vanheuleは、ラカンの「私支配 je-cratie」に触れていないが、去勢の拒否(去勢の排除)とは、事実上こうである。



真理のなかでの主体と主人の出現の地平において、 それ自身と等価となることは、「私支配 je-cratie」だ。

à l'horizon de la montée du sujet-Maître dans  une vérité qui s'affirme de son égalité à soi-même,  de cette « je-cratie »

(Lacan, S17, 11 Février 1970)


こう置けば、たちまちマルクスのG-W-Gと繋がる。





自動的主体 ein automatisches Subjekt 
諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。

これに反して、流通 G-W-G (貨幣-商品-貨幣)では、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。

価値は、この運動の中で消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的主体 ein automatisches Subjekt に転化する。

自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。

しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値Mehrwert としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。

なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖 Selbstverwertung であるからである。(マルクス『資本論』第1巻第2章第4節)

ーーここでのG-W-G (貨幣-商品-貨幣)とは実際は G-W-G’(G+Mehrwert)である。

剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン、ラジオフォニー, AE434, 1970年)


三角形ではなく四角形に戻してマルクス語彙とラカン語彙を重ね合わせれば、次のようになる。








すなわち、資本の言説の主体とは、剰余価値=剰余享楽に強迫された自動的主体のことである。


剰余価値:「もはやどんな価値もない」+「もっと価値を!」
剰余価値は欲望の原因であり、経済がその原理とするものである。経済の原理とは「享楽欠如 manque-à-jouir」の拡張的生産の、飽くことをしらない原理である。la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.(Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年)
最も純粋には、剰余享楽としての対象aの享楽とは、享楽欠如の享楽(享楽欠如のエンジョイ) [enjoying the lack of enjoyment] のみを意味する。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2007)
仏語の「 le plus-de-jouir(剰余享楽)」とは、「もはやどんな享楽もない」と「もっと享楽を!」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by 2009)


Stijn Vanheule2016に戻って、もう少し付け加える。

資本の言説が意味するのは、「市場(S1)」において交換価値に則って商品やサービスを購買する「消費者 ($) 」である。

しかし、いったん消費者が商品やサービスを所有あるいは消費してしまえば、交換価値は使用価値に還元される。

「消費者が所有するS1」は、「彼の世界を構成する他の諸シニフィアン(S2)」との対話に至る。

これは快楽や達成感をそれほど生まない。むしろ酔いさましの過程である。結局、消費財は諸々の人工加工物のなかの一つの人工加工物である。諸シニフィアンの中の一つのシニフィアンである。(……)

市場にまだあって購買するときには価値を持っていた何ものかは、消費者が所有したときにはもはや消滅する。商品は望まれた満足を提供しない。

期待された魅惑は喪われる。そのときの「生産物」は屑 aである。

生産されたものは、剰余享楽(残滓a)であり、次の段階で、不快やパニックの火をつける。a から $ への矢印が明瞭化しているのは、対象a が主体を混乱させることである。それは再び $ から S1 への動きを生む。従って、以前の消費がもたらした不満に対する「資本の言説」の応答とは、「もっと消費せよ!」である。

資本の言説において真に消費されるものは、欲望自体である。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis, 2016)





◼️次は、ピエール・ブルノPierre Bruno, capitalist exemption, 2016より。

欲望の主体$は、資本の言説において、「真理 S1」の不到達性から逃れるように構築されている。真理の場に到達しうるだけではなく、「知S2」に到るためには「真理」を通り過ぎなければならない。資本家の言説における真理は、占星術における地位と同じ地位である。

S1 → S2(左下から右上への斜めの矢印)は、資本家/労働者の転移がなされる。というのは、生産において仲介するものは、労働力のノウハウだから。…
S1が知を所有していないなら、何が命令する能力を与えるのか? 答えは金融力である。労働者は命令に従って生産する。彼等はマルクスが見出した剰余価値の秘密を生産する。われわれは知っている、マルクスにとってーー誰もがこの点においては異議をとなえない--労働力は、小麦や鉄と同様の「商品」になるという事実によって、資本主義は特徴づけられることを。したがって、資本主義において、剰余享楽 (a) は剰余価値の形態をとる。

剰余享楽とは、フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」と等価である。この快の獲得は、享楽の構造的欠如を補填する。…

資本家の言説の鍵の発見は、次のことを認知を意味する。すなわち剰余享楽の必然性が、《塞ぐべき穴 trou à combler》(Lacan,Radiophonie,1970)としての享楽の地位に基礎づけられていること。

マルクスはこの穴を剰余価値にて塞ぐ。この理由でラカンは、剰余価値 Mehrwert は、マルクス的快 Marxlust ・マルクスの剰余享楽 plus-de-jouir だと言う。剰余価値は欲望の原因である。資本主義経済は、剰余価値をその原理、すなわち拡張的生産の原理とする。

さてもし、資本主義的生産--M-C-M' (貨幣-商品-貨幣+貨幣)--が消費が増加していくことを意味するなら、生産が実際に、享楽を生む消費に到ったなら、この生産は突然中止されるだろう。その時、消費は休止され、生産は縮減し、この循環は終結する。これが事実でないのは、この経済は、マルクスが予測していなかった反転を通して、享楽欠如 manque-à-jouir を生産するからである。

消費すればするほど、享楽と消費とのあいだの裂目は拡大する。従って、剰余享楽の配分に伴う闘争がある。それは、《単なる被搾取者たちを、原則的搾取の上でライバルとして振舞うように誘い込む。彼らの享楽欠如の渇望 la soif du manque-à-jouir への明らかな参画を覆い隠すために。induit seulement les exploités à rivaliser sur l'exploitation de principe, pour en abriter leur participation patente à la soif du manque-à-jouir. 》(LACAN, Radiophonie, 1970)

新古典主義経済の理論家の一人、パレートは絶妙な表現を作り出した、議論の余地のない観察の下に、グラスの水の「オフェリミテ ophelimite) 」ーー水を飲む者は、最初のグラスの水よりも三杯目の水に、より少ない快を覚えるーーという語を。ここからパレートは、ひとつの法則を演繹する。水の価値は、その消費に比例して減少すると。しかしながら反対の法則が、資本主義経済を支配している。渇きなく飲むことの彼岸、この法則は次のように言いうる、《飲めば飲むほど渇く》と。(ピエール・ブルノPierre Bruno, capitalist exemption, 2016)






快の獲得=剰余享楽
フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」…それはきわめてシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。…そして快の獲得、つまり剰余享楽は…可能な限り少なく享楽すること…最小限をエンジョイすることだ。[Lustgewinn… à savoir tout simplement mon « plus-de jouir ».  …jouir le moins possible .   …jouit au minimum](Lacan, S21, 20 Novembre 1973)
快の獲得=栄養摂取ではなくおしゃぶりの快
まずはじめに口が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは「性的 sexuell」と名づけることができるし、またそうすべきものである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


以上、資本の言説については、四つの言説とは異なり、ラカンはわずかなことしか言っていないので、ラカン派のなかには種々の解釈がある。たとえばジジェクは長いあいだ資本の言説自体には触れておらず、2016年に初めて触れたが、上の解釈とは一見まったく異なる(ただしあくまで一見でありよく考えれば大きくつながる)。ここまでに示したのは、基本版としての現在ラカン派におけるごく常識的な解釈である。


ちなみにジジェクは次のように言っている。

資本の言説を、四つの言説すべての特殊な組合せと捉えたらどうだろう? 第一に、資本主義は主人の言説のままである。資本=主人(S1)は、知・科学によって拡張された使用人のノウハウ(S2)を使用し、横棒の下にプロレタリア($)を保ちつつ、剰余価値を装った剰余享楽(a)を生む。しかしながら、資本主義における支配の標準の置き換え(個人は形式的には自由で平等だ)のせいで、この出発点は2つに分裂する。すなわちヒステリーの言説と大学人の言説である。最終的な結果は、分析家の言説の資本主義ヴァージョンである。そこでは、命令する支柱のなかに剰余享楽/剰余価値を持っている。(Slavoj Žižek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016 )


このジジェクの捉え方はとても面白いことは間違いない。

まず資本の主人の言説がある。




そしてこれがプロレタリアの言説(ヒステリーの言説)とノウハウの言説(大学人の言説)に分裂する。




実際、日本における文字通りの大学人の言説は、現在ノウハウの言説にすぎず、彼らがつきうごかされてのは、真理のポジションにある金かもしれない(たとえば科研費獲得)。

最後に分析家の言説がある。





ヒステリーとしてのプロレタリア($)は剰余享楽(a)に指令されて資本=金(S1)に靡く(言説理論におけるヒステリー の言説とは欲望の言説という意味であり、通念としてのヒステリー ではない)。

ラカン は次のように言っている。


社会的症状は一つあるだけである。すなわち各個人は実際上、皆プロレタリアである。つまり個人レベルでは、誰もが「社会的つながり lien social を築く言説」、換言すれば「見せかけ semblant」をもっていない。これが、マルクスがたぐい稀なる仕方で没頭したことである。
Y'a qu'un seul symptôme social : chaque individu est réellement un prolétaire, c'est-à-dire n'a nul discours de quoi faire lien social, autrement dit semblant. C'est à quoi MARX a paré, a paré d'une façon incroyable.(LACAN, La troisième 1-11-1974 )


ここでジャック=アラン・ミレール を導入しよう。

ハイパーモダン文化の言説は分析家の言説の構造を持っている! le discours de la civilisation hypermoderne a la structure du discours de l’analyste!  Conférence de Jacques-Alain Miller en Comandatuba par Jacques-Alain Miller 2004)

ハイパーモダン、すなわち後期資本主義の言説=分析家の言説を「超自我の言説」と捉えれば、多くのことが繋がってくる。ジジェクはこのミレールに反撥しつつも何度も問い直している。
まずラカンから列挙しよう。

超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)
超自我のあなたを遮ぎる命令impératifs interrompus du Surmoi. は、…声としての対象aの形態 forme de l'objet(a) qu'est la voixをとる。(ラカン, S10, 19 Juin 1963)
エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン, S18, 16 Juin 1971)
超自我を除いて sauf le surmoiは、何ものも人を享楽へと強制しない Rien ne force personne à jouir。超自我は享楽の命令であるLe surmoi c'est l'impératif de la jouissance 「享楽せよ jouis!」と。(ラカン, S20, 21 Novembre 1972)
自我理想 Idéal du Moiは象徴界で終わる finir avec le Symbolique。言い換えれば、何も言わない ne rien dire。何かを言うことを促す力、言い換えれば、教えを促す魔性の力 force démoniaque…それは超自我 Surmoi だ。(ラカン, S24, 08 Février 1977)

そしてジジェクである。

超自我は、私に憑き纏い非難する内部の声である。他方、自我理想は、私を恥じ入らせる眼差しである。

この対立のカップルは、伝統的な資本主義から現在支配的な快楽主義的-自由放任的ヴァージョンへの移行の把握を可能にしてくれる。ヘゲモニー的イデオロギーは、もはや自我理想としては機能しない。自我理想の眼差しに晒されたとき、その眼差しが私を恥じ入らる機能はもはやない。大他者の眼差しは、その去勢力を喪失している。すなわちヘゲモニー的イデオロギーは、猥褻な超自我の命令として機能している。その命令が私を有罪にするのは、(象徴的禁止を侵害するときではない。そうではなく)、十全に享楽していないため・決して十二分に享楽していないためである。(Slavoj Žižek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016 )

自我理想あるいは父の名が失墜した後期資本主義時代のプロレタリアとしてのわれわれは、人それぞれ何らかの形で、この超自我の声なき声の命令に突き動かされて日々、活動しているのではないだろうか。

ラカンの命題においては、沈黙すること faire taire が「対象aとしての声 voix comme objet a」と呼ばれるものに相当する。(J.-A. Miller, Jacques Lacan et la voix, 1988)


事実、上にStijn Vanheuleの文脈のなかで示した「私支配」図において、人は剰余享楽の命令に突き動かされている。






自らのことを外して言わせてもらえば、たとえばツイッターの言説はほとんどみなこの構造になっているように感じてしまい、笑いたくなる。人は何よりもまず、ツイッター装置が最も露骨な資本の言説装置のひとつであることをはやく悟るべきである。


聖人となればなるほど、ひとはよく笑う。これが私の原則であり、ひいては資本主義の言説からの脱却なのだが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない。

Plus on est de saints, plus on rit, c'est mon principe, voire la sortie du discours capitaliste, - ce qui ne constituera pas un progrès, si c'est seulement pour certains.  (ラカン、テレビジョン、1973年ノエル)

ーーここでの聖人とはサントームのことである(参照)。

聖人 saint homme  =サントームsinthome