青空文庫に『偏奇館吟草』が入庫されており、初めて読んだ。
エピグラフはヴェルレーヌである。
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De la musique avant toute chose ――Paul Verlaine.
詩は何よりも先音楽的ならむことを。ポール、ヴヱルレーヌ
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はしがきがあってーーこれも詩形式だがーー、最初の詩は「夏うぐひす」である。
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夏うぐひす 荷風
夏うぐひす樫の葉がくれ夕まぐれ。
夏うぐひすのつかれし調
何をかうたふ。
とりのこされて人里に
うらぶれて行くかなしみか。
かへりそびれし故里の思出か。
老を歎かん。われもまた。
親しきものは皆去りぬ。
生きながらへてわれのみひとり。
むかしを慕ふ。
それかあらぬか
夏うぐひすのつかれし調。
樫の葉がくれ夕まぐれ。
(「女性 第一巻第二号」新生社 ーー1946(昭和21)年5月1日)
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「沙羅の木」はわたくしの頭のなかでその音楽性によって「寺の庭」とセットになっている。
中井久夫は鴎外の「沙羅の木」についてこう言った。
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押韻もさることながら、「褐色(かちいろ)の根府川石(ねぶかはいし)」「石に白き花はたと」「たり/ありしとも青葉がくれに/みえざりし」に代表される遠韻、中間韻の美は交錯して、日本詩のなかで稀有な全き音楽性を持っている(中井久夫『分裂病と人類』)
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他方、三好達治は犀星の「寺の庭」についてこう言った。
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……三好が詩に於てつとに萩原朔太郎を宗としたことは周知のとほりだが、その詩境をうかがふに、年をふるにしたがつて、むしろ室生さんのはうに「やや近距離に」あゆみ寄つて来たのではないかとおもふ。萩原さんの詩はちよつと引つかかるところがあるけれど、室生さんの詩のはうはすらすら受けとれると、げんに當人の口から聞いたことがあつた。萩原さんをつねに渝らず高く仰いてゐた三好として、これは揣らずもみづからの素質を語つたものだらう。ちなみに、そのときわたしは鑑賞上それと逆だと應へたおぼえがある。また三好が酣中よくはなしてゐたことに、芥川龍之介は百發九十九中、室生犀星は百發わづかに一中だが、のべつにはづれる犀星の鐵砲がたまにぶちあてたその一發は芥川にはあたらないものだといつて、これにはわたしも同感、われわれは大笑ひした。つち澄みうるほひ、石蕗の花咲き……といふ室生さんの有名な詩は三好が四十年あまりにわたつで「惚れ惚れ」としつづけたものである。「つち澄みうるほひ」はまさに犀星の一發。このみがき抜かれたことばの使ひぶりは詩人三好が痩せるほど氣に入つた呼吸にちがひない。(石川淳「三好達治」『夷斎小識』所収)
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ーー「木犀の匂をお聴きかの。」
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晦堂は客の言が耳に入らなかつたもののやうに何とも答えなかつた。寺の境内はひつそりとしてゐて、あたりの木立を透してそよそよと吹き入る秋風の動きにつれて、冷々とした物の匂が、あけ放つた室々を腹這ふやうに流れて行つた。
晦堂は静かに口を開いた。「木犀の匂をお聴きかの。」 山谷は答へた。山谷はそれを聞いて、老師が即答のあざやかさに心から感歎したといふことだ。
ふと目に触れるか、鼻に感じるかした当座の事物を捉へて、難句の解釈に暗示を与へ、行詰つてゐる詩人の心境を打開して見せた老師の搏力には、さすがに感心させられるが、しかし、この場合一層つよく私の心を惹くのは、寺院の奥まつた一室に対座してゐる老僧と詩人との間を、煙のやうに脈々と流れて行つた木犀のかぐはしい呼吸で、その呼吸こそは、単に花樹の匂といふばかりでなく、また実に秋の高逸閑寂な心そのものより発散する香気として、この主客二人の思を浄め、興を深めたに相違ないといふことを忘れてはならぬ。……(薄田泣菫「木犀の香」)
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