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2020年5月23日土曜日

ガラクタ的知の社交場


まず、ジョン・グレイによるジジェクの二冊の書ーー"LESS THAN NOTHING","Living in the End Times"ーーの書評「The Violent Visions of Slavoj Žižek」(John Gray、2012)に対するジジェクによる反論を掲げる。

あなたは、あなたが批評しているところの著作がどのようなものであるかを全く無視している。あなたは論争の道筋を再構成する試みを全く放棄している。その代わりに、曖昧模糊とした教科書的な通則やら、著者の立場の粗雑な歪曲、漠然とした類推、その他諸々を一緒くたにして放り投げ、そして自身の個人的な従事を論証するために、そのような深遠に見せかけた挑発的な気の利いたジョークのガラクタに、道義的な義憤というスパイスを加えているのだ(「見ろ!あの著者は新たなホロコーストを主張しているみたいだぞ!」といったように)。真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいるものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。(スラヴォイ・ジジェク:彼の批判に応答して、2012

ジョン・グレイ(1948~)は、イギリスの政治哲学者であり、オックスフォード大学教授を経て、現在、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス名誉教授。1949年生れのジジェクと同世代ということになる。

グレイの著作は、バラードなどにも賞賛されたことがある。

Gray’s work has been praised by, amongst others, the novelists J. G. Ballard, Will Self and John Banville,etc(Wikepedia)

だがジジェクの反論は明らかに正しい。この名高い政治哲学者のジジェク批判は、ジジェクの著書をまともに読んでさえいなくて書かれており、まさに「ファストフード的な知的消費者」向けのものである。

そしてこれが資本の言説基本版にて記した後期資本主義の時代の「大学人の言説=ノウハウの言説」の典型例のひとつであるのは間違いない。






この図の語彙を、上のジジェク文の語彙群等で置き換えれば次の通り。







残滓aは「未加工の、飼い馴らされていない子供」という意味もある。


大学人の言説は「中立的」知のポジションから発せられる。それは現実界の残滓に向けられ(言わば、学者ぶった知の場合なら、「未加工の、飼い馴らされていない子供[raw, uncultivated child]に向けられる)、その a を主体に変える(S2  → a →  $ )。
大学人の言説の「真理」は、横棒の下に隠されているが、もちろん、権力、つまり主人のシニフィアンS1である。大学人の言説の構成的な虚偽は、その行為遂行的側面の否認である。実際上、権力を基盤とした政治的決断に帰するものを、事実に基づく状況への単純な洞察として提示してしまう。(SLAVOJ ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW, 2004)




他方、後期資本主義の時代の「ヒステリー の言説=プロレタリアの言説」はこうであった。




S1の場にある「資本」は、資本の言説基本版で示したように「市場」とも言い換えうる。これも含めて用語を置き換えてみよう。




というふうに、見事にSNSの言説が示された(ラカンの「言説」とは「社会的結びつき」という意味である)。

これを資本の言説の形に当て嵌めてみよう。



すると次のようになる。



「超自我の声」の項だけ、いくつかを再掲して確認しておこう。


超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン, S7, 18 Novembre 1959)
超自我のあなたを遮ぎる命令impératifs interrompus du Surmoi. は、…声としての対象aの形態 forme de l'objet(a) qu'est la voixをとる。(ラカン, S10, 19 Juin 1963)
エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン, S18, 16 Juin 1971)
超自我を除いて sauf le surmoiは、何ものも人を享楽へと強制しない Rien ne force personne à jouir。超自我は享楽の命令であるLe surmoi c'est l'impératif de la jouissance 「享楽せよ jouis!」と。(ラカン, S20, 21 Novembre 1972)


資本の言説の時代の超自我の命令の特徴は、消費を通して欲望を満足させるという義務にかかわる (McGowan, The End of Dissatisfaction? Jacques Lacan and the Emerging Society of Enjoyment, 2004)
猥褻な超自我の命令…が私を有罪にするのは、(象徴的禁止を侵害するときではない。そうではなく)、十全に享楽していないため・決して十二分に享楽していないためである。(Slavoj Žižek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016 )


で、とくに何ガイイタイワケデモナイ・・・(以下、上の分量の2倍くらい記したのだが消した)。

ツイッター社交場での日本的ガラクタ知やその愛好者たちをバカにしても、彼らがオリコウになるわけでもなし、いまさらセンナキコトだから。

曖昧模糊とした教科書的な通則やら、著者の立場の粗雑な歪曲、漠然とした類推、その他諸々を一緒くたにして放り投げ、、そのような深遠に見せかけた挑発的な気の利いたジョークのガラクタに、道義的な義憤というスパイスを加えている真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいるものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。(スラヴォイ・ジジェク、2012