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2020年5月24日日曜日

商品語と人間語の相同性

以下、基本的には、マルクス文やマルクス注釈文ををラカンスキーマを使って示し換える試みである。


もし商品が話すことができるならこう言うだろう。われわれの使用価値[Gebrauchswert]は人間の関心をひくかもしれない。だが使用価値は対象としてのわれわれに属していない。対象としてのわれわれに属しているのは、われわれの(交換)価値である。われわれの商品としての交換がそれを証明している。われわれは互いにただ交換価値[Tauschwerte]としてのみ互いに関係している。

Könnten die Waren sprechen, so würden sie sagen, unser Gebrauchswert mag den Menschen interessieren. Er kommt uns nicht als Dingen zu. Was uns aber dinglich zukommt, ist unser Wert. Unser eigner Verkehr als Warendinge beweist das. Wir beziehn uns nur als Tauschwerte aufeinander.(マルクス 『資本論』第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)








マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)

シニフィアンは、対象を指示しない記号である le signifiant est un signe qui ne renvoie pas à un objet …シニフィアンはまた不在の記号である Il est lui aussi signe d'une absence…

シニフィアンは、他の記号と関係する記号である c'est un signe qui renvoie à un autre signe。 言い換えれば、二つ組で己れに対立する pour s'opposer à lui dans un couple (ラカン, S3, 14 Mars 1956)





一つのシニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代表象する un signifiant est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant(ラカン『主体のくつがえし』E819, 1960年)

一つのシニフィアン S1 は、他のシニフィアン S2 に対して、その不在・その欠如 $を代表象する。この不在・欠如 $ は主体である。a signifier (S1) represents for another signifier (S2) its absence, its lack $ which is the subject. (ジジェク,  For They Know Not What They Do, 1991)


S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」(S2)によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。(ラカン, S17, 26 Novembre 1969)




主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって代表象されうるものである Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値 valeur d'échange として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体 le sujet de la valeur d'échange は何に対して代表象されるのか? ーー使用価値 valeur d'usage である。

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、「剰余価値 plus-value」と呼ばれるものである。この喪失 perte は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。(ラカン, S16, 13 Novembre 1968)




ラカンの幻想の式 $ ◊ aは…不可能な非関係impossible non‐relationshipである。$ とa は、その場を埋め合わせる要素なき空虚の場/場なき過剰の要素である。the empty place with no element filling it in and the excessive element without its place(ジジェク 、LESS THAN NOTHING, 2012)

ーー《彷徨える過剰は存在のリアルである。L’excès errant est le réel de l’être.》(バディウ Cours d’Alain Badiou) [ 1987-1988 ])



見せかけ(仮象)はシニフィアン自体だ! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)




あなた方は焦らないようにしたらよろしい。哲学のがらくたに肥やしを与えるものにはまだしばらくの間こと欠かないだろうから。

対象a …この対象は、哲学的思惟には欠如しており、そのために自らを位置づけえない。つまり、自らが無意味であることを隠している。…

この対象(私が対象aと呼ぶもの que j'appelle l'objet petit a)、それはフェティシュfétiche とマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである。(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」AE207、1966年)




商品のフェティシズム…それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。[Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.](マルクス 『資本論』第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)






剰余価値=剰余享楽(もはやどんな価値もない+もっと価値を!)
剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン、ラジオフォニー, AE434, 1970年)
剰余価値は欲望の原因であり、経済がその原理とするものである。経済の原理とは「享楽欠如 manque-à-jouir」の拡張的生産の、飽くことをしらない原理である。la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.(Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年)
最も純粋には、剰余享楽としての対象aの享楽とは、享楽欠如の享楽(享楽欠如のエンジョイ) [enjoying the lack of enjoyment] のみを意味する。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2007)
仏語の「 le plus-de-jouir(剰余享楽)」とは、「もはやどんな享楽もない」と「もっと享楽を!」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by 2009)

剰余価値=剰余享楽=おしゃぶりの快
フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」…それはきわめてシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。…そして快の獲得、つまり剰余享楽は…可能な限り少なく享楽すること…最小限をエンジョイすることだ。[Lustgewinn… à savoir tout simplement mon « plus-de jouir ».  …jouir le moins possible .   …jouit au minimum](Lacan, S21, 20 Novembre 1973)
まずはじめに口が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは「性的 sexuell」と名づけることができるし、またそうすべきものである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

症状概念 la notion de symptôme。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、…マルクスを読むことlecture […]MARXによってて、とても容易くその所在を突き止めるうる。(Lacan, S18, 16 Juin 1971)


……………


広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。(……)その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


私は、主体を去勢と等価だと記す。 j'écris S barré équivalent à moins phi :     (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XV, 8/avril/2009)





我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien(ミレール、Des semblants dans la relation entre les sexes、1997)


無=去勢
セミネール4において、ラカンはこの「無 rien」に最も近似している対象a を以て、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに彼は後年、対象aの中心には去勢[- φ]がある [au centre de l'objet petit a se trouve le - φ]と言うのである。そして対象と無 [l'objet et le rien ]があるだけではない。ヴェール voile もある。したがって、対象aは現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある [l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant]。この対象aは、フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche]である。(J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993)


言語は仮象である
象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)
言語は存在しない。le langage, ça n'existe pas. (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)
見せかけ=仮象はシニフィアン自体だ! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)






そもそも言語自体が我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(ジュリア・クリステヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)




原価値としての自分自身から剰余価値Mehrwert としての自分を突き放す
諸商品の流通の最も単純な形態は W-G-W (商品-貨幣-商品)すなわち、諸商品を貨幣へと変形すること、その貨幣を諸商品へと再び変え戻すことである。すなわち買うために売ることである。

しかしこの形態と並んでもう一つのとりわけ異なった形態をわれわれは見いだす。

G-W-G (貨幣-商品-貨幣)、貨幣を諸商品へと変形し、それからその諸商品を貨幣へと再び変え戻すこと;すなわち、売るために買うこと、をわれわれは見いだす。

後者の仕方で巡回する貨幣は、それ[売るために買うこと]によって資本へと変形され、資本となり、そしてすでに潜在的に資本である。(…)

諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。

これに反して、流通 G-W-G (貨幣-商品-貨幣)では、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。

価値は、この運動の中で消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的主体 ein automatisches Subjekt に転化する。

自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。

しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値Mehrwert としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。

なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖 Selbstverwertung であるからである。
In der Tat aber wird der Wert hier das Subiekt eines Prozesses, worin er unter dem beständigen Wechsel der Formen von Geld und Ware seine Größe selbst verändert, sich als Mehrwert von sich selbst als ursprünglichem Wert abstößt, sich selbst verwertet. Denn die Bewegung, worin er Mehrwert zusetzt, ist seine eigne Bewegung, seine Verwertung also Selbstverwertung.

(マルクス『資本論』第1巻第2章第1節「資本の一般的形態 Die allgemeine Formel des Kapitals」)




去勢は「斜線を引かれた享楽」とも記される。






先に示した図も同様だが、このジャック=アラン・ミレール の図を利用して、マルクス曰くの《原価値としての自分自身から剰余価値Mehrwert としての自分を突き放し、自分自身を増殖する》を図示すればこうなる。




マルクスが商品のフェティシズムを語るとき、…価値の外観と論理的オートノミーとのあいだのミニマムな移行[minimal shift between the appearance and the logical autonomy of value ]を叙述している。人間語と商品語の不可分性は、ラカンの定式「メタランゲージはない」の先鞭を付けている。別の言い方をすれば、差異システムのオートノミーを限界づける規範はないということである。…言語は単一義的ではなく多義的であり、関係ではなく非関係という範例的事例である。…言語システムと経済システムは開かれた集合を形成する。結果としてメタランゲージ(大他者の大他者)の非存在と大他者の非存在は同一である。(サモ・トムシックSamo Tomšič 『資本家の無意識 The Capitalist Unconscious』2015年)

今日、マルキシストであるためのは、われわれはラカンを通さねばならぬ! To be a Marxist today, one has to go through Lacan!”(ジジェク書評、The Capitalist Unconscious Marx and Lacan by Samo Tomšič– Slavoj Žižek)




◼️付記

なお厳密には、マルクスにおいて3つのフェティッシュがある。

「貨幣のフェティッシュ Geldfetischs」
「商品のフェティッシュ  Warenfetischs」
「自動的フェティッシュ  automatische Fetisch」


貨幣のフェティッシュの謎 Das Rätsel des Geldfetischsは、ただ、商品のフェティッシュの謎 Rätsei des Warenfetischs が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。(マルクス『資本論』第1巻)
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。…

ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物件化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第3巻)


他方、ラカン においては標準的な想像的フェティッシュ以外に黒いフェティッシュという概念がある。

享楽が純化される jouissance s'y pétrifie とき、黒いフェティッシュ fétiche noir となる。(ラカン、E773、Kant avec Sade 1963年) 
純粋対象、黒いフェティッシュpur objet, fétiche noir. (S10, 16 janvier 1963)

この黒いフェティッシュは後年、「骨象=文字a」呼ばれるようになったもので、いわば現実界的フェティッシュである(現実界の境界表象)。

骨象、文字対象a [« osbjet », la lettre petit a]( Lacan, S23、11 Mai 1976)

このリアルなフェティッシュと上でクリステヴァが指摘している言語のフェティッシュを含めて、マルクスの3つのフェティッシュにラカン用語を置けば、次のように整理できるとわたくしは考えている。




ボロメオの環にて示せば、こうなる。





空集合Ø は、マルクスが「資本の中身なき形態 begriffslose Form」「最も眩い形での資本のの神秘化 die Kapitalmystifikation in der grellsten Form」等と言っている場である。

ラカンの空集合は、主にフレーゲ起源であり、その意味するところは、マルクスの「自動的フェティッシュautomatische Fetisch」の記述と驚くほど合致する。

フレーゲの思考においては、「一」という概念は、ゼロ対象と数字の「一」を包含している。(Guillaume Collett, The Subject of Logic: The Object (Lacan with Kant and Frege), 2014)


中身なき形態としての自動的フェティッシュは、柄谷のいう「資本の欲動」にも相当する。

資本家は、 G‐W‐G’( G+ ⊿G )という自己運動に積極的にとびこんで行かねばならない(…)。使用価値は、けっして資本家の直接目的として取り扱われるべきではない。個々の利得もまたそうであって、資本家の直接目的として取り扱われるべきものは、利得の休みなき運動でしかないのだ。(…)

資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』pp.25-26)

資本の欲動とは「資本という無頭の主体」のことでもあろう。

欲動は「無頭の主体」のモードにおいて顕れる。la pulsion se manifeste sur le mode d’un sujet acéphale.(ラカン、S11、13 Mai 1964)


なお柄谷は2016年の英論文で、マルクスの「自動的フェティッシュautomatische Fetisch」を「絶対的フェティッシュabsolute fetish」と呼んでいる。

株式資本にて、フェティシズムはその至高の形態をとる。…株式とは「絶対的フェティッシュ」である。with joint-stock capital, fetishism takes its highest form. […]the joint-stock is the “absolute fetish,”.(Capital as Spirit by Kojin Karatani,2016)

ーー《現実界は絶対的ゼロの側に探し求められるべきである。Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu》(Lacan, S23, 16 Mars 1976)



……………

最後に最も基本的な確認をしておけば、ラカンにとって象徴界は大他者であり、大他者は、法・言語の法である。

欲望は欲望の欲望、大他者の欲望である。欲望は法に従属している Le désir est désir de désir, désir de l'Autre, avons-nous dit, soit soumis à la Loi (ラカン、E852、1964年)

そして貨幣自体、言語・法の審級にある。

言語、法、貨幣の媒介があって、個々の人間ははじめて普遍的な意味での人間として、お互いに関係を持つということが可能となります。

言語があるからこそ、生活体験をともにしてこなかった他人とも、同じ人間としてコミュニケーションが可能になります。

また、法があるからこそ、個人の腕力や一族の勢力が異なった他者であっても、同じ場所で生活することが可能になります。

そして、貨幣があるからこそ、どのような欲望をもっているか知らない他人とでも、交換をするが可能になります。

人格の問題は、このようなお互いが関係を持つことができる人間社会が成立した中で、はじめて発生することになります。

そして、そこではじめて二重性(ヒトであってモノである)をもった存在としての人間が出てくるのだろうと思います。(岩井克人『資本主義から市民主義へ』2006年)


そしてラカンの象徴的ファルスΦの効果とは、言語化という意味である。

ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallusとは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン, S18, 09 Juin 1971)

したがって先ほど示したボロメオの環は次のように用語を変えてもよい。





そして柄谷ははやくも1980年代前半に、実に明瞭な形で「メタランゲージはない」を示している。

言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式 体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系あるいは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あ るいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)

メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre,
真理についての真理はない il n'y a pas de vrai sur le vrai.

…見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)


したがってジジェクが絶賛するサモ・トムシック自体、いまさら何を言っているのだ、という立場があってもおかしくない。

言語は単一義的ではなく多義的であり、関係ではなく非関係という範例的事例である。…言語システムと経済システムは開かれた集合を形成する。結果としてメタランゲージ(大他者の大他者)の非存在と大他者の非存在は同一である。(サモ・トムシックSamo Tomšič 『資本家の無意識 The Capitalist Unconscious』2015年)

もっともサモ・トムシックは、数多くのフロイトやラカン語彙をマルクス語彙と結びつけつつ明瞭化したという功績は間違いなくある。