2022年4月1日金曜日

マデレーン・オルブライトの「正義の剣」の系譜

 ビル・クリントン政権で第64代国務長官を務めた米国初の女性の国務長官マデレーン・オルブライトは、祖父母3人を含む親戚多数がホロコーストで殺されているユダヤ系チェコ人である。

彼女は次のような話もある人で、米ネオコン文化の代表的人物のひとりであろう。


1993年に国際連合大使に就任し、ブトロス・ブトロス=ガーリ事務総長と対立してガーリの進める国際連合改革を頓挫させ、最終的に辞任に追い込むなど、冷酷な一面も併せ持つ。クリントン政権2期目の発足と共に国務長官に就任した。


国務長官時代の特筆する事績としては、ユーゴスラビア連邦共和国におけるコソボ紛争において、ナチスの民族浄化を身をもって経験して、ドイツだけでなく、ポグロムを行ったロシアやスラブ系国家に激しい憎しみを抱いており、空爆に消極的な西側首脳をまとめ、ユーゴスラビア空爆を行ったことが挙げられる。ミロシェヴィッチ大統領の失脚・コソボの自治権獲得も含め、一定の成果を挙げたとも言える。(Wikipedia)


ここでは1996年コソボ紛争時のオルブライトの発言を取り上げる。これはジジェクが2016年の米大統領選時にクドイほどーー私の知る限りでも三度ほどーー取り上げた話で、それは「米ネオコン文化」の「正義」の危うさを指摘する文脈のなかであった。


Madeline Albright, “the price is worth it.”


マデレーン・オルブライトは、1996年5月12日のCBCテレビドキュメンタリー「60ミニッツ」で、その年のイラクへの巡航ミサイル攻撃(「砂漠攻撃作戦」Operation Desert Strikeとして知られている)について質問を受けた。「私たちは50万人の子供たちが死んだと聞いています。それは広島で死んだ子供たちより多いということです。あなたは代価はそれに見合ったものだと思いますか?」

オルブライトは静かに答えた。「これはとても難しい選択だと私は思います。でも代価は、ーー私たちは考えます、代価はそれに見合ったものだと(I think this is a very hard choice, but the pricewe think the price is worth it)」。


この応答から生まれる多くの問いをここでは無視しよう(例えば、興味深い「私」から「私たち」への移行も含めて)。そして一つの局面にだけ焦点を当てよう。われわれは大騒ぎが湧き起こることが想像できないだろうか、もし同じ応答をウラジーミル・プーチンや中国の習近平、あるいはイランの大統領のような誰かが言ったなら? 彼らはたちまち冷酷無情な怪物として非難されるのではないか。

(ジジェク: Clinton, Trump and the Triumph of Global Capitalism

Why the Hillary Clinton consensus is a threat to democracy―and the Left. AUGUST 24, 2016




前回示した「ネオコン宗教団体」における今の日本の国際政治学者集団は、こういったオルブライトマインドを学んでいるんだろう。私は彼らの「徹底抗戦」一択の主張に強い異和を持ち続けてきたが、50万人の子供たちの死の犠牲を払っても「正義」貫徹ほうが大切だとするのをここではオブライトマインドと呼ぶとすれば、そしてあれら国際政治学者にこのマインドが引き継がれているなら、ネオコン宗教団体に帰依した信念の人として自ら思い込んだ(洗脳された)「正義」、すなわちウクライナ市民を犠牲にしてもロシアの悪を叩き潰さねばならないという「正義のファシスト」として振る舞い続けているのもナルホドと思わせる。



ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。〔・・・〕マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。〔・・・〕

アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

信者の共同体[Glaubensgemeinschaft]…そこにときに見られるのは他人に対する容赦ない敵意の衝動[rücksichtslose und feindselige Impulse gegen andere Personen]である。…宗教は、たとえそれが愛の宗教[Religion der Liebe ]と呼ばれようと、所属外の人たちには過酷で無情なものである。


もともとどんな宗教でも、根本においては、それに所属するすべての人びとにとっては愛の宗教であるが、それに所属していない人たちには残酷で偏狭になりがちである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)


もっとも彼らだけではない。正義の剣を束ねて盲目になった「ファシスト集団」はそこらじゅうに見られる、この今の国際政治学者集団だけではなく、例えばつい最近のオープンレター集団もそうだった、《一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなおしてみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 》(中井久夫『看護のための精神医学』)。たぶん世界に蔓延するSNS文化がこの病理を増長している。


……………


マデレーン・オルブライトは冒頭に示したが少女期にとても強いトラウマ体験があって、ファシズムのにおいのする民族には容赦のないタイプだったようだ。



オルブライト自身は直接にはウクライナには関係していないようだが、米国の政治中枢にはウクライナ系ユダヤ人が伝統的に多いらしい。ひょっとして、《復讐欲動の発展としての正義[Gerechtigkeit als Entwicklung des Rachetriebes. ]》(ニーチェ「力への意志」遺稿、1882 - 1887 )という人たちがびっくりするぐらいいるのかもしれない。


これからきみにぼくの人生で最も悲しかった発見を話そう。それは、迫害された者が迫害する者よりましだとはかぎらない、ということだ。ぼくには彼らの役割が反対になることだって、充分考えられる。(クンデラ「別れのワルツ」1972年)

過去の虐待の犠牲者は、未来の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。(When psychoanalysis meets Law and Evil: Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe, 2010)



次の動画はいくらか同意できない箇所があるのだが、この際貼り付けておこう➡︎YouTube




人がブレジンスキーやオルブライトの幼少期のナチ体験の後年までの影響を受け入れるなら、これは抑圧されたものの回帰ーー厳密には原抑圧されたものの回帰ーーにかかわる。「抑圧されたものの回帰」とは何よりもまず「トラウマの回帰」である➡︎ 「忘れられた歴史のスティグマは行為として呼び戻される」。