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2022年2月27日日曜日

忘れられた歴史のスティグマは行為として呼び戻される


初期ラカンーー初期と言っても既に52歳のラカンだが、セミネールを始める以前のラカンという意味で最初期のラカンーーはこう書いてる。


想定された本能的ステージにおけるどの固着も、何よりもまず歴史のスティグマである。恥のページは忘れられる。あるいは抹消される。しかし忘れられたものは行為として呼び戻される[toute fixation à un prétendu stade instinctuel est avant tout stigmate historique :  page de honte qu'on oublie ou qu'on annule, ou page de gloire qui oblige.  Mais l'oublié se rappelle dans les actes](Lacan, E262, 1953)



この文は後期ラカン観点ーー欲望から欲動へ移行したラカンーーからは核心的文のひとつで、ジャック=アラン・ミレールは次のように注釈している。


ラカンは欲動的対象との関係[le rapport à l'objet pulsionnel ]において「抑圧されたもの」のモデルを考えようとした。これが次の凝縮された叙述が意味していることである。《このページは忘れられている。だが行為として呼び戻される[cette page est oubliée mais elle se rappelle dans les actes ]».  (Lacan,E262)これが意味するのは、抑圧されたものの回帰は欲動的享楽に関係する[le retour du refoulé dans le rapport à la jouissance pulsionnelle]ということである。(J.-A. MILLER, L'expérience du réel dans la cure analytique - 3/02/99)


抑圧されたものの回帰は、欲動的享楽の回帰だとある。


ラカンはセミネールⅩⅦで、《反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]》(Lacan, S17, 14 Janvier 1970)と言っているが、これが抑圧されたものの回帰に相当する。


抑圧されたものの回帰は享楽の回帰と相同的である[retour du refoulé…symétriquement il y a retour de jouissance](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 10/12/97、摘要)



実はこの思考は1953年の冒頭の文だけでなく、セミネールⅠ でも既に現れている。


抑圧されたものの回帰と抑圧は同じものということには驚かないでしょうね? [Cela ne vous étonne pas, …, que le retour du refoulé et le refoulement soient la même chose ? ](Lacan, S1, 19 Mai 1954)

抑圧は何よりもまず固着である[le refoulement est d'abord une fixation](Lacan, S1, 07 Avril 1954)


つまり抑圧されたものの回帰は固着の回帰と言っている。そして、《享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. 》(J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)、つまり固着の回帰[retour de la fixation]=享楽の回帰[retour de la jouissance]なのである。


………………


ここでフロイトに戻って検証してみよう。冒頭のラカン文における《恥のページは忘れられる。あるいは抹消される。しかし忘れられたものは行為として呼び戻される》は、次のフロイトの言い換えである。


人は、忘れられたものや抑圧されたもの[Vergessenen und Verdrängten]を「思い出す erinnern」わけではなく、むしろそれを「行為にあらわす agieren」。人はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん自分がそれを反復していることを知らずに(行為として)反復している[ohne natürlich zu wissen, daß er es wiederholt]。(フロイト『想起、反復、徹底操作』1914年)



さらにフロイトの抑圧されたものの回帰とは実際は「原抑圧された欲動の回帰=固着の回帰」である。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]〔・・・〕この欲動の固着[Fixierungen der Triebe] は、以後に継起する病いの基盤を構成する。〔・・・〕

抑圧されたものの回帰は固着点から始まる[Wiederkehr des Verdrängten…erfolgt von der Stelle der Fixierung her]。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー)1911年、摘要)

固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)


※異者とはフロイトの定義においてトラウマである。ーー《トラウマないしはトラウマの記憶は、異者 (異者身体[Fremdkörper] )のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt]》(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


もっともフロイトは後年になればなるほど原抑圧を抑圧とだけ言うようになる。例えばこうである。


抑圧されたものの回帰は、トラウマと潜伏現象の直接的効果に伴った神経症の本質的特徴としてわれわれは叙述する[die Wiederkehr des Verdrängten, die wir nebst den unmittelbaren Wirkungen des Traumas und dem Phänomen der Latenz unter den wesentlichen Zügen einer Neurose beschrieben haben. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.3, 1939年)


結局、(原)抑圧されたものの回帰とはトラウマの回帰なのである。そしてフロイト1937年の『終わりなき分析』においては、原抑圧と原固着と原トラウマを等置している。原抑圧[Urverdrängung]=原固着[Urfixierung]=原トラウマ[Urtrauma]である。


同時期のフロイトは、より厳密に、トラウマはトラウマへの固着と反復強迫であり、不変の個性刻印だとも言っている。


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕


このトラウマの作用は、トラウマへの固着[Fixierung an das Trauma]と反復強迫[Wiederholungszwang]の名の下に要約される。この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen ](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)



この不変の個性刻印として固着が冒頭のラカンの、《想定された本能的ステージにおけるどの固着も、何よりもまず歴史のスティグマ[stigmate historique]である》に相当する。もっともフロイトにおいては何よりもまず「個人史におけるスティグマ」であるが。


だが例えば国の歴史においても、このトラウマへの固着と反復強迫という歴史のスティグマがあるに違いない。(例えばドイツにおけるナチの記憶。あるいはロシアにおける強度のトラウマ的な歴史のスティグマは、僅か30年前のソ連解体の出来事であるーー《ソ連の崩壊は、今世紀最大の地政学惨事である》(プーチン、2005年4月連邦議会演説)ーー。これらは反復強迫を起こさないではいられない筈である。もっともフロイトにおいて反復強迫はポジ面とネガ面がある[参照]。簡単にいえばポジ面「トラウマ的喪失を取り戻そうとする欲動」、ネガ面「回避ーー制止と恐怖症」であり、これは現在のロシアとドイツにそのまま当てはまる症状である。日本ももちろん同様。例えば第一次内閣時から「戦後レジームからの脱却」を唱えていた安倍晋三がプーチンに親和性をもち続けてきたのなぜかはーー人がここでの文脈を受け入れるならーー敢えていうまでもなかろう。)



…………………



ここでふたたびラカンに戻って確認しておこう。先ほどセミネールⅩⅦに「享楽の回帰」という表現があるのを示した。


反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance](Lacan, S17, 14 Janvier 1970)



この享楽とは穴=トラウマのことである。


享楽は、抹消として、穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

現実界は穴=トラウマを為す[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)


したがって享楽の回帰[le retour de la jouissance]とは穴の回帰[le retour du trou]、トラウマの回帰[le retour du traumatisme]である。


享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel. ](Lacan, S23, 10 Février 1976)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)



こうしてフロイトの(原)抑圧されたものの回帰=トラウマへの固着の回帰と享楽の回帰(トラウマの回帰=固着の回帰)の全き一致があることが示された筈である。




なおトラウマとは、上に示したようにフロイトにおいて異者(異者身体[ Fremdkörper] )であり、トラウマの回帰は異者の回帰(異者身体の回帰[le retour du corps étranger])とも呼びうる。

最後にジャック=アラン・ミレールの注釈にて再確認しておこう。



享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)

分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る[Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation]. 〔・・・〕

われわれはトラウマ化された享楽を扱っている[Nous avons affaire à une jouissance traumatisée] J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE2011)



現実界のなかの異者概念(異者身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、異者身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。 Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


以上、享楽の回帰とは、自我の治外法権にある異者=トラウマ的なエスの欲動蠢動の反復強迫である。