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2022年4月18日月曜日

ウクライナ戦争へのパララックスヴューのために

 21世紀に入って柄谷行人とジジェクが取り上げたカントの強い視差 starke Parallaxen (パララックス)概念がある。


以前に私は一般的人間理解を単に私の悟性 Verstand の立場から考察した。今私は自分を自分のでない外的な理性 äußeren Vernunft の位置において、自分の判断をその最もひそかなる動機もろとも、他人の視点 Gesichtspunkte anderer から考察する。両方の考察の比較はたしかに強い視差 starke Parallaxen (パララックス)を生じはするが、それは光学的欺瞞 optischen Betrug を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段でもある。(カント『視霊者の夢Träume eines Geistersehers』1766年)



柄谷はこのパララックスをマルクス読解にも適用した。


重要なのは、〔・・・〕マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしには存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


ーー《柄谷の画期的成功は、…パララックスな読みかたをマルクスに適用したこと、マルクスその人をカント主義者として読んだことにある。》(ジジェク『パララックスヴュー』2006年)


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今年81歳になられる遠藤誉さんの4月になってからの三つの記事はパララックスの視点をもつために実に優れている。



◼️「なぜアメリカはウクライナ戦争を愛しているのか」を報道したインドのTVにゼレンスキーが出演、遠藤誉 2022年4月18日

戦争の原因を語ったからと言って、誰一人、ロシアの味方をしているわけではない。筆者を含め、ほぼ全員が、ロシアの蛮行は許せないと断言し、その前提で「戦争が起きる原因」を追究するのは、「人類から戦争そのものが無くなって欲しい」からである。

 しかし、日本はアメリカに追随した単一思考しか容認せず、少しでも必死で原因を解明しようとして、バイデンが原因を作っているという結論に達した瞬間に、すぐさま「陰謀論」と詰る感覚が出来上がっている傾向にある。



◼️「アメリカはウクライナ戦争を終わらせたくない」と米保守系ウェブサイトが

遠藤誉 2022年4月16日

◼️ウクライナ戦争の責任はアメリカにある!――アメリカとフランスの研究者が

遠藤誉 2022年4月13日



もうひとつ、NATO勤務の経験もある元参謀本部大佐、元スイス戦略情報部員、ジャック・ボーJACQUES BAUDの3月25日時点での論も、より具体的な視差をえるために極めて秀逸である。



◼️スイスの元軍事情報将校「ウクライナの軍事状況、2022年3月25日」 Kfirfas 2022年4月16日



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「どっちもどっち論」を嫌う日本の国際政治学者たちのあいだの風潮は、私にはひどく視野の幅が狭い攻撃的正義に陥っているように見えて仕方がない。


一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年 )

誰にも攻撃性はある。自分の攻撃性を自覚しない時、特に、自分は攻撃性の毒をもっていないと錯覚して、自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる時が危ない。医師や教師のような、人間をちょっと人間より高いところから扱うような職業には特にその危険がある。中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」1986年)




別の言い方をすれば、あれら国際政治学者たちは「選択的非注意」に陥っている。私はそう思わざるを得ない。


古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(中井久夫「いじめの政治学」1997年『アリアドネからの糸』所収)


平和の論理がわかりにくいのは、平和の不名誉ではないが、時に政治的に利用されて内部で 論争を生む。また平和運動の中には近親憎悪的な内部対立が起こる傾向がある。時とともに、 平和を訴える者は同調者しか共鳴しないことばを語って足れりとするようになる。  これに対して、戦争の準備に導く言葉は単純明快であり、簡単な論理構築で済む。人間の奥 深いところ、いや人間以前の生命感覚にさえ訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟であ る。これらは多くの者がふだん持ちたくて持てないものである。戦争に反対してこの高揚を損 なう者への怒りが生まれ、被害感さえ生じる。仮想された敵に「あなどられている」「なめられている」「相手は増長しっ放しである」の合唱が起こり、反対者は臆病者、卑怯者呼ばわりされる。戦争に反対する者の動機が疑われ、疑われるだけならまだしも、何かの陰謀、他国の廻し者ではないかとの疑惑が人心に訴える力を持つようになる。  


さらに、「平和」さえ戦争準備に導く言論に取り込まれる。すなわち第一次大戦のスローガ ンは「戦争をなくするための戦争」であり、日中戦争では「東洋永遠の平和」であった。戦争 の否定面は「選択的非注意」の対象となる。「見れども見えず」となるのである。  


平和の時には戦争に備え、戦争の際に平和を準備するべきだという見解はもっともである が、戦争遂行中に指導層が平和を準備することは、短期で戦勝に終わる「クラウゼヴィッツ型戦争」の場合にしか起こらない。これは19世紀西欧における理想型で、たとえ準備してもめっ たに現実化しない。短期決戦による圧倒的戦勝を前提とする平和は現実には稀である。リデル =ハートが『戦略論』で「成功した戦争は数少ない」と述べているとおりである。妥協による 講和が望みうる最良のものであるが、外征軍が敵国土に侵攻し、戦争目的が体制転覆さらには 併合である場合の大多数では、侵攻された側の抵抗は当然強固かつ執拗となり、本来の目的が 容易ならぬ障壁に遮られ、しばしば「戦争の堕落」とでもいうべき事態が起こる。 (中井久夫「戦争と平和ある観察」 2005年)



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※付記


私がこのところしばしば示しているボロメオの環も、主にパララックスヴューのためのツールとしてである。






ボロメオの環において、想像界の環(I)は現実界の環(R)を覆っている。象徴界の環(S)は想像界の環(I)を覆っている。だが象徴界自体は現実界の環(R)に覆われている(支配されている)。これがラカンのトポロジー図の一つであり、多くの臨床的現象を形式的観点から理解させてくれる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999)


イラクへの攻撃の三つの「真の」理由(①西洋のデモクラシーへのイデオロギー的信念、②新しい世界秩序における米国のヘゲモニーの主張、③石油という経済的利益)は、パララックスとして扱わねばならない。どれか一つが他の二つの真理ではない。「真理」はむしろ三つのあいだの視野のシフト自体である。それらはISR(想像界・象徴界・現実界)のボロメオの環のように互いに関係している。民主主義的イデオロギーの想像界、政治的ヘゲモニーの象徴界、エコノミーの現実界である。[the Imaginary of democratic ideology, the Symbolic of political hegemony, the Real of the economy](ジジェク Zizek, Iraq: The Borrowed Kettle, 2004)


ジジェクはここで現実界をマルクス的にエコノミーとしているが、現代ラカンにおいては、より広い意味が与えられており、現実界は原因である。


われわれが現実界という語を使うとき、この語の十全な固有の特徴は「現実界は原因である」となる[quand on se sert du mot réel, le trait distinctif de l'adéquation du mot : le réel est cause. ](J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 26/1/2011)