2022年4月30日土曜日

エアレイプ事件発生

 


最近もう追うのはやめた小泉悠の発言なんだが、ーーアキレハテテ? ーーなんだかまた変なのに行き当たっちゃったよ。小泉悠チャンの、BSフジLIVE「プライムニュース」4月18日でのアゾフについての発言に。


そうか、そうか。「立て籠っているアゾフ連隊というのが、最初は自警団的な組織でできていて、そのときはネオナチ的な人が多かったんですよ、たぶん今でもそういう人たちがいないわけじゃないです」か。


東野篤子の発言も含めてこんな具合らしい。


ウクライナ東部攻防に西側は支援増強 ロシアの動向は…長期化する侵攻を東野篤子氏・小泉悠氏と分析 4/20(水) 

BSフジLIVE「プライムニュース」4月18日放送

長野美郷キャスター:

4月16日にロシア国防省は投降を要求したが、ウクライナ側は応じず徹底抗戦の構え。


小泉悠 東京大学先端科学技術研究センター専任講師:

行き場はすでにない。さらに、立てこもっているアゾフ連隊は、できた当初は自警団的な組織で、当時はかなりネオナチ的な人が多かった。今もいないわけではない。ロシアはネオナチからウクライナを解放すると言っており、投降してもこの人たちが真っ当に捕虜として扱われる感じはしない。


長野美郷キャスター:

アゾフ大隊はマリウポリを拠点とする部隊で、2014年5月に義勇兵部隊として設立。ドンバス紛争に参加後、ウクライナ内務省が所管する国家親衛隊に編入。


東野篤子 筑波大学教授:

たしかに2014年に結成された時には、あまり品がよくない、あるいは極右的な思想を持った人たちによって作られ、残虐行為なども一定程度あったと言われる。だがこれは過去形で、その後内務省に所属したときにあまりにも問題ある人は淘汰された。2014年のアゾフ大隊と今のアゾフ連隊を全く同一と見ること、アゾフがいるからウクライナはネオナチの国家だとすることにはかなり無理がある。



そうか、そうか、小泉悠チャンも東野篤子チャンも、例えばTIME特派員サイモン・シャスターの2019年夏のウクライナ調査とは真逆の見解なんだな、➡︎YouTube:「TIME アゾフ大隊 - ウクライナの白人至上主義的民兵の内幕」



「マイケル・マクフォールよ、恥を知れ、この宇ナチ化野郎!」(スコット・リッター)で記した話とも大違いの認識なんだな。「当時はかなりネオナチ的な人が多かった。今もいないわけではない」なんてね。



ダニエル・コバリクの2014年以降のウクライナネオナチ化大発展という話とも真逆だね。


2018年のロイターの記事によれば、ウクライナには30以上の右翼過激派グループがあり、それらは「ウクライナの軍隊に正式に統合されている」し、「これらのグループの中でもより過激なものは、不寛容で非自由なイデオロギーを推進する」とある。

国境にはロシア民族を攻撃する過激派集団が存在するだけでなく、この集団はロシア自体の領土保全を不安定にし、弱体化させるという意図を持って、米国から資金提供や訓練を受けている。


ヤフーニュースが報じたように、CIAはウクライナのエリート特殊作戦部隊やその他の諜報員のため、米国で秘密集中訓練プログラムを監督している。「米国は反乱軍を訓練している」とCIAの元幹部は言い、このプログラムはウクライナ人に「ロシア人を殺す方法」を教えている、と付け加えた。[‘The United States is training an insurgency,’ said a former CIA official, adding that the program has taught the Ukrainians how ‘to kill Russians.’”]

ロシアが、ウクライナにおける米国、NATO、それらの過激派の代理人による不安定化の努力によって、深刻な形で脅かされていることに疑いの余地はない。 ロシアは丸8年間、そのような脅威にさらされてきた。(Daniel Kovalik: Why Russia’s intervention in Ukraine is legal under international law 2022.4.23 )



ま、いいさ、世界にはいろんな見解があってね。
ああいったもんさ、米ポチ国際政治学者やら軍事「芸能人」やらポチメディアというのは。


もはやどんな恥もない[Il n'y a plus de honte] …下品であればあるほど巧くいくよ[plus vous serez ignoble mieux ça ira ](Lacan, S17, 17 Juin 1970)

人の羞恥心のなさは他人の羞恥心をレイプする[l'impudeur de l'un à elle seule faisant le viol de la pudeur de l'autre.](Lacan, E772, 1963)