2022年4月4日月曜日

小泉悠に耐える方法

 ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体(Imagined Communities)』(1983年)は、柄谷行人が何度も言及しているので知ったのだが、政治学の分野では必読書のひとつだそうだ。

アンダーソンはこの書の冒頭近くで、ネーション〔国民 Nation〕、ナショナリズム〔国民主義 nationalism〕の定義はこよなく難しいと言っている。これは現在でもそうだろう。そして彼は、ネーションあるいはナショナリズムを当面、親族や宗教として扱おうとしている。


ネーション〔国民Nation〕、ナショナリティ〔国民的帰属nationality〕、ナショナリズム〔国民主義nationalism〕、すべては分析するのはもちろん、定義からしてやたらと難しい。ナショナリズムが現代世界に及ぼしてきた広範な影響力とはまさに対照的に、ナショナリズムについての妥当な理論となると見事なほどに貧困である。ヒュー・シートンワトソンーーナショナリズムに関する英語の文献のなかでは、もっともすぐれたそしてもっとも包括的な作品の著者で、しかも自由主義史学と社会科学の膨大な伝統の継承者ーーは慨嘆しつつこう述べている。「したがって、わたしは、国民についていかなる『科学的定義』も考案することは不可能だと結論せざるをえない。しかし、現象自体は存在してきたし、いまでも存在している」。〔・・・〕

ネーション〔国民Nation〕とナショナリズム〔国民主義nationalism〕は、「自由主義」や「ファシズム」の同類として扱うよりも、「親族」や「宗教」の同類として扱ったほうが話は簡単なのだ[It would, I think, make things easier if one treated it as if it belonged with 'kinship' and 'religion', rather than with 'liberalism' or 'fascism'. ]


そこでここでは、人類学的精神で、国民を次のように定義することにしよう。国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であるーーそしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像されると[In an anthropological spirit, then, I propose the following definition of the nation: it is an imagined political community - and imagined as both inherently limited and sovereign. ]〔・・・〕


国民は一つの共同体として想像される[The nation …it is imagined as a community]。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛[comradeship]として心に思い描かれるからである。そして結局のところ、この同胞愛[fraternity]の故に、過去二世紀わたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである。


これらの死は、我々を、ナショナリズムの提起する中心的間題に正面から向いあわせる。なぜ近年の(たかだか二世紀にしかならない)萎びた想像力[shrunken imaginings]が、こんな途方もない犠牲を生み出すのか。そのひとつの手掛りは、ナショナリズムの文化的根源に求めることができよう。(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』1983年)



ナショナリズムが宗教であるとすれば、殺し合いや人が自らすすんで死んでいく現象は、過去の宗教戦争を少しでも想起すれば、まったく不思議ではない。この宗教は場合によって多くの犠牲者を生み出すのである。


私はこのところ何度か掲げて強い違和感を表明してきたのだが、ロシアウクライナ戦争におけるマスコミの寵児小泉悠も宗教家とみなせばなんの不思議ではなくなる。



◼️ 『ロシア停戦のカギとロシア停戦のカギとは プーチンの誤算と不満 専門家が読み解く結末』 BSフジLIVE プライムニュース 2022年3月16日

小泉悠「自国が侵略を受けているとき、戦う以外に言うことがありますか。日本が侵略を受けた時、戦わないと言いますか。抵抗し、負けない期間を引き延ばし、停戦交渉で主権を守ることが繋がる。抵抗しなければ交渉が困難なことを、日本人も理解すべき」


ーー市民は降伏するべきでは?


小泉悠「市民が侵略に対し武装して戦うのがそんなにおかしいですか?ロシア軍は、既に民間を攻撃している訳です。一般市民が自国を守る為に戦い国を守るのは歴史的な例がある」

兼原信克「侵略者にすぐ降伏せよという日本の考え方は世界的に特殊なんです」



想像の共同体宗教の信者、「誠実かつ真摯な」ナショナリズム宗教の信者の発言。私にはどうしても受け入れ難かった小泉悠の上の言説もこう捉えれば何とか耐えることができそうな気がする。そして小泉悠への国際政治学者たちを初めとする巷間の応援団たちにもこの際何とか耐えてみせなければならない・・・


ナショナリズムの信者の共同体が愛国主義に向かい意見の異なる他者に対して不寛容になるのは、フロイト的観点からも十全に説明しうる。


信者の共同体[Glaubensgemeinschaft]…そこにときに見られるのは他人に対する容赦ない敵意の衝動[rücksichtslose und feindselige Impulse gegen andere Personen]である。…宗教は、たとえそれが愛の宗教[Religion der Liebe ]と呼ばれようと、所属外の人たちには過酷で無情なものである。


もともとどんな宗教でも、根本においては、それに所属するすべての人びとにとっては愛の宗教であるが、それに所属していない人たちには残酷で不寛容になりがちである。Im Grunde ist ja jede Religion eine solche Religion der Liebe für alle, die sie umfaßt, und jeder liegt Grausamkeit und Intoleranz gegen die Nichtdazugehörigen nahe.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)



アンダーソンの「想像の共同体」のフロイト的別名は「イリュージョンの共同体」である。


宗教的教理はすべてイリュージョンであり、証明不可能で、何人もそれを真理だと思ったり信じたりするように強制されてはならない[ den religiösen Lehren, …Sie sind sämtlich Illusionen, unbeweisbar. Niemand darf ge-zwungen werden, sie für wahr zu halten, an sie zu glauben](フロイト『ある錯覚の未来の未来 Die Zukunft einer Illusion』第6 章、1927年)



もっとも小泉悠を担ぎ上げている国際政治学者の多くは、ナショナリズム宗教の信者というよりも、むしろ米ネオコン宗教の信者であるように見えるが、これももちろん「イリュージョンの共同体」信者である。


ここでたまたま昨日YouTubeで拾ったハサン中田氏による次のまとめを挿入する。



ーー私はシツレイながら彼のファンでもなんでもなくどんな思考をもった方か殆ど知らないのだが、とはいえミスターハサンも最近の言論界の風潮にさぞ苛立っておられるのだろう。


話を戻せば、あの国際政治学者集団のなかには「国際法」信者もいるようで、ツイッター上でしきりに強迫神経症的に「魔女狩り」をナサッテオラレル。ーー《宗教は人類全体がかかっている強迫神経症である[Die Religion wäre die allgemein menschliche Zwangsneurose]》(フロイト『あるイリュージョンの未来Die Zukunft einer Illusion』第章、1927年)



魔女狩りが宗教戦争によって激化された面はあっても二次的なものである。この問題に関してだけはカトリックとプロテスタントがその立場を越えて互いに協力するという現象がみられるからである。互いに相手の文献や記述を引用しながら魔女狩りの根拠としてさえいる。さらに教会人も世俗人もともに協力しあった。つまり魔女狩りは非常に広範な ”合意" "共同戦線"によって行なわれた。そして組織的な警察などの治安維持機構のないところで、新知識のローマ法的手続きで武装した大学卒の法官たちは、民衆の名ざすままに判決を下していった。市民法のローマ法化たとえばニュルンベルク法の成立と魔女狩りの開始は時期を一にする。


法官は、サタンが契約によってその軍勢である魔女をどんどんふやして全人類のためのキリストの犠牲を空無に帰せしめようとしている、と観念した。多くの者の危機感はほんものであり、「焼けども焼けども魔女は増える一方である」との嘆声がきこえる。独裁者が被害妄想を病むことは稀れでないが、支配階層の相当部分がかくも強烈な集団被害妄想にかかることは稀れであって、次は『魔女の槌』に代わって四〇〇年後に『我が闘争』をテキストにした人たちまで待たなければならない。法における正義を追求したジャン・ポーダンのような戦闘的啓蒙主義者が、同時に苛烈な魔女狩り追求者であったことをどう理解すべきであろうか。おそらく共通項は、ほとんど儀式的・強迫的なまでの「清浄性」の追求にあるだろう。世界は、不正と同じく魔女のようないかがわしく不潔なものからクリーンでなければならなかったのである。死刑執行費が遺族に請求されたが、その書類の形式まで四〇〇年後のナチスと酷似しているのは、民衆の求めた祝祭的・豊饒儀礼的な面とは全く別のシニカルなまでに強迫的な面である。また、科学に類比的な面もないではなかった。すべての魔女を火刑にする酷薄さには、ペストに対してとられた、同様に酷薄な手段、すなわち患者を放置し患者の入市や看護を死刑をもって禁ずるという方法が有効であったことが影響を与えているだろう。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収)


まさに! 法による正義を追求する者が最も苛烈な魔女狩り追求者になるのは、昔も今も変わるところがない。コレハ政治学ノ世界デモ常識デアロウ・・・


と記したところでウクライナのネオナチ問題の記事を少し前書かれていた方がこれまたゴクフツウの指摘をなさっておられたのを思い起こした。





さて私は、強迫性を隠蔽させる話術を備えたナショナリズム宗教信者小泉悠には何とか耐える方法を見出したが、魔女狩り国際法信者にはいまだ耐える方法を見出していない。何とか探し出さないといけない、このままではたんに嘔吐に襲われるだけでなく、もともと高い血圧がさらに上がって「死への道」を歩まねばならなくなってしまう・・・


…………………


最後に通常はーー柄谷やジジェクらの思考の下ではーー「国家」と置かれる象徴界の法の場に「国際法」を代入してラカン的なボロメオの環を示しておこう。




ここで強調したいのは、善の顔をもった国際法は、帝国主義という悪に支配されていることである(ラカンはこの象徴界の場を見せかけ[semblant]とも呼んだ)。国際政治学者たちが何よりもまず気づかねばならないのはこの構造である。

仮にマルクス用語を代入すれば次の通り。


もちろん人は誰もが知っている、貨幣という法、言語の法が必ず必要なのは。



言語、法、貨幣の媒介があって、個々の人間ははじめて普遍的な意味での人間として、お互いに関係を持つということが可能となります。


言語があるからこそ、生活体験をともにしてこなかった他人とも、同じ人間としてコミュニケーションが可能になります。

また、法があるからこそ、個人の腕力や一族の勢力が異なった他者であっても、同じ場所で生活することが可能になります。

そして、貨幣があるからこそ、どのような欲望をもっているか知らない他人とでも、交換をするが可能になります。


人格の問題は、このようなお互いが関係を持つことができる人間社会が成立した中で、はじめて発生することになります。

そして、そこではじめて二重性(ヒトであってモノである)をもった存在としての人間が出てくるのだろうと思います。(岩井克人『資本主義から市民主義へ』2006年)


だが貨幣は資本に支配されている。国際法が帝国主義(世界資本主義)に支配されているように。


マルクスなしで、経済知なしで国際政治が語れると思ったら大間違いである。経済音痴の国際政治学者はたんなる政局屋に過ぎない。


“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”(後は野となれ山となれ!)、これがすべての資本家およびすべての資本主義国民のスローガンである[Après moi le déluge! ist der Wahlruf jedes Kapitalisten und jeder Kapitalistennation. ](マルクス『資本論』第1巻「絶対的剰余価値の生産」)

(資本システムにおいて)支配しているのは、自由、平等、所有、およびベンサムだけである。Was allein hier herrscht, ist Freiheit, Gleichheit, Eigentum und Bentham. 〔・・・〕

ベンサム! なぜなら双方のいずれにとっても、問題なのは自分のことだけだからである。彼らを結びつけて一つの関係のなかに置く唯一の力は、彼らの自己利益,彼らの特別利得、彼らの私益という力だけである。

Bentham! Denn jedem von den beiden ist es nur um sich zu tun. Die einzige Macht, die sie zusammen und in ein Verhältnis bringt, ist die ihres Eigennutzes, ihres Sondervorteils, ihrer Privatinteressen.(マルクス『資本論』第1巻第2篇第4章)


ーー《マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できない。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらだ。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することだ。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければならない。》(ドゥルーズ「思い出すこと」インタビュー1993年)


例えば世界の指導的位置にいまだデンと座る表の顔の背後には帝国主義者としてのリアルな米国が隠れている。表の顔の米国とは異なり、リアルな資本の欲動の体現者米国は今回の戦争を長引かせたい。そう、例えば自国の軍需産業を潤すために。マルクス曰くの資本主義者のスローガン、何が起ころうと「後は野となれ山となれ!」である。資本の欲動とはG‐W‐G’( G+ ⊿G )という自動機械・無頭の主体である。善人に見せかけた政治的主体の背後には必ずこの無頭の主体がいる。これが少なくとも1990年以降の新自由主義世界の掟である。これがドゥルーズが死の2年前の1993年にしかと気づいたマルクスの教えの臍である。


利子生み資本では、自動的フェティッシュ[automatische Fetisch]、自己増殖する価値 、貨幣を生む貨幣が完成されている。〔・・・〕

ここでは資本のフェティッシュな姿態[Fetischgestalt] と資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]の表象が完成している。我々が G─G′で持つのは、資本の中身なき形態 [begriffslose Form]、生産諸関係の至高の倒錯と物件化[Verkehrung und Versachlichung]、すなわち、利子生み姿態・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化[ die Kapitalmystifikation in der grellsten Form.]である。(マルクス『資本論』第三巻第二十四節 Veräußerlichung des Kapitalverhältnisses usw.)



まさか「マトモな」国際政治学者なら、仮にマルクス自体には無知でもこの構造自体のほうは知らぬわけがあるまい? マトモなやつが日本にいるのかどうかは私は知らぬが。