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2022年4月26日火曜日

そこの芸術家のキミの「道徳上の罪」

 

https://twitter.com/PelmeniPusha/status/1518728521224441857


ウクライナのロシア話者の多いNikolayev州知事が親ロシア的言動を取ったものは「裏切り者として処刑」とマガオで言っているんだよな。





で、平和構築の国際政治学者篠田英朗はーーもちろん彼だけではなくこのたぐいの国際政治学者がウヨウヨいるんだがーーウクライナへ武器供与をもっとしろと言い続けており、さらには本日、日本も「早く武器供与すればいい」と言ってるわけだ。



ま、これは1990年以降の米ネオコンの伝統的態度だけれど。➡︎「マデレーン・オルブライトの「正義の剣」の系譜」

で、大半の日本ツイッター民はこのたぐいの国際政治学者のツイートを涼しい顔で見てるんだよな。

で、この日本のツイッター界ってアリカイ? アリなんだろうな、キミらには。

長い間忘れていた柄谷=ヤスパースの罪責論思い出しちゃったよ。


ヤスパースは戦後まもない講演(『罪責論』)において、戦争責任を、刑事的責任、政治的責任、道徳的責任、形而上的責任の四種類に分けている。


第一に、「刑事上の罪」、これは戦争犯罪――国際法違反を意味する。これはニュールンベルク裁判で裁かれている。


第二に、「政治上の罪」、これは「国民」一般に関係する。《近代国家において誰もが政治的に行動している。少なくとも選挙の際の投票または棄権を通じて、政治的に行動している。政治的に問われる責任というものの本質的な意味から考えて、なんびとも、これを回避することは許されない。政治に携わる人間は後になって風向きが悪くなると、正当な根拠を挙げて自己弁護するのが常である。しかし、政治的行動においてはそういった弁護は通用しない》(橋本文夫訳)


つまり、ファシズムを支持した者だけでなく、それを否定した者にも政治的責任がある。《あるいはまた「災禍を見抜きもし、予言もし、警告もした」などというが、そこから行動が生まれたのでなければ、しかも行動が功を奏したのでなければ、そんなことは政治的に通用しない》。


第三に、「道徳上の罪」、これはむしろ、法律的には無罪であるが、道徳的には責任があるというような場合である。たとえば、自分は人を助けられるのに、助けなかった、反対すべき時に反対しなかったというときがそうである。もちろん、そうすれば自分が殺されるのだから、罪があるとはいえない。しかし、道徳的には責任がある。なぜなら、なすべきこと(当為)を果たさなかったからである。


最後に、「形而上の罪」として、アドルノがいったようなことを述べている。たとえば、ユダヤ人で強制収容所から生還した人たちは、ある罪悪感を抱いた。彼らは自分が助かったことで、死んだユダヤ人に対して罪の感情を抱く、まるで自分が彼らを殺したかのように。それは、ほとんどいわれのないことだから、形而上的だというのである。


この講演はほとんど知られていないが、戦後ドイツの戦争責任への処し方を規定したものである。こうした区別は、それらがつねに混同されている現状から見て不可欠である。しかし、ここに幾つかの問題がある。ヤスパースは、まるでナチズムがたんに精神的な過誤であり、それを哲学的に深く反省すれば片づくかのように考えている。そこには、ナチズムをもたらした社会的・経済的・政治的諸原因への問いが欠落している。ヤスパースは、カントのいう道徳性を「道徳的な罪」のレベルにおき、「形而上の罪」をより高邁なものであるかのように見なした。しかし、カントのいう道徳性は根本的にメタフィジカルである。同時に、それは「責任」を離れて、「自然」(因果性)を徹底的に探求すべきであることと矛盾しないのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』P189注、2001年)


この柄谷=ヤスパースを受け入れるなら、少なくともあのたぐいの国際政治学者の跳梁跋扈放っておく日本人は「道徳上の罪」があるよ。《反対すべき時に反対しなかった》という罪がね。

そこの「涼しい顔した芸術家」のキミももちろん。


芸術家とは、その内的な感性の鋭さ故に政治に背を向けるのではない。内的な繊細さが要求されてもいないときに外的な鈍感さを装う、きわめて政治的な存在なのである。それはほかでもない、制度的に深く政治に加担する存在だということだ。〔・・・〕


自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている…。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものかを、あえてここで列挙しようとは思わぬが……。


混乱に対して共感を示さずにおくことの演じうる政治性に無自覚であることの高度の政治的選択。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)


ここでの蓮實の「凡庸な芸術家」は、実際には、文化人、知識人、中野重治のいう「芸能人」のこと。ツイッター民ってのはほとんどみな「凡庸な芸能人」さ。


もちろん、こういった観点をまったく受け入れないのが、キミら仔羊、あるいは「末人」だろうがね。ネオコンという支配的イデオロギーの掌の上で猿踊りやってるのは無難で居心地がいいだろうからな。



しかし政治上の罪、つまりヤスパース曰くの《「災禍を見抜きもし、予言もし、警告もした」などというが、そこから行動が生まれたのでなければ、しかも行動が功を奏したのでなければ、そんなことは政治的に通用しない》。これを受け入れるなら、あのたぐいのネオコン宗教信者の国際政治学者の「信仰」に対抗するのはムダ、馬鹿にはつける薬がないーー「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」》(小林秀雄)ーーと思いつつあるボクは、この政治上の罪人になっちまうな・・・しかし宗教信者の信仰は到底是正しようがないというのは「経験的真理」だからなあ、ああ、オレもやっぱり罪人だあ