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2022年5月14日土曜日

美の起源は痛みのレミニサンス


まずこの二つがセットでいいんじゃないかね、美の起源は。


おそらく痛み[douleur]はただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。

(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄金のアリア』)


美には傷以外の起源はない[Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure]。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』)




痛みは傷みだからな


これでは物足りない方のために、こう付け加えてもよい。


私の享楽あるいは私の痛み[ma jouissance ou ma douleur](ロラン・バルト『明るい部屋』第11章、1980年)

疑いもなく享楽があるのは、痛みが現れる始める水準である[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur](Lacan, Psychanalyse et medecine, 1966)

傷つけられた享楽 [jouissance blessée](Colette Soler, Les affects lacaniens 2011)


以上、決定。享楽[jouissance] =痛み[douleur]=傷み[blessure]



とはいえプルーストを外すわけいかないね、やっぱり。冒頭のシュネデールはおそらくプルーストを骨までしゃぶるように読んでるからな


記憶の混濁 [troubles de la mémoire ]には心の間歇 [les intermittences du cœur] がつながっている。われわれの内的な機能の所産のすべて、すなわち過去のよろこびとか痛みとかのすべて [tous nos biens intérieurs, nos joies passées, toutes nos douleurs]が、いつまでも長くわれわれのなかに所有されているかのように思われるとすれば、それはわれわれの身体の存在 [l'existence de notre corps]のためであろう、身体はわれわれの霊性が封じこまれている瓶[un vase où notre spiritualité serait enclose]のように思われているからだ。(プルースト「ソドムとゴモラ」)


昔スワンが、自分の愛されていた日々のことを、比較的無関心に語りえたのは、その語り口のかげに、愛されていた日々とはべつのものを見ていたからであること、そしてヴァントゥイユの小楽節が突然彼に痛みをひきおこした[la douleur subite que lui avait causée la petite phrase de Vinteuil] のは、愛されていた日々そのものをかつて彼が感じたままによみがえらせたからであることを、私ははっきりと思いだしながら、不揃いなタイルの感覚、ナプキンのかたさ、マドレーヌの味が私に呼びおこしたものは、私がしばしば型にはまった一様な記憶のたすけで、ヴェネチアから、バルベックから、コンブレーから思いだそうと求めていたものとは、なんの関係もないことを、はっきりと理解するのであった。(プルースト「見出された時」)



要するに美の起源は痛みのレミニサンスだ。それ以外にはない。


私は作品の最後の巻ーーまだ刊行されていないーーで、無意識の再起の上に私の全芸術論をすえる[je trouve à ces ressouvenirs inconscients sur lesquels j'asseois, dans le dernier volume non encore publié de mon œuvre, toute ma théorie de l'art, ](Marcel Proust, « À propos du “ style ” de Flaubert » , 1er janvier 1920)