一見したところ、商品はきわめて明白でありふれた物に見える。だがそれを分析してみると、形而上学的神秘や神学的微妙さに満ちた、何とも厄介な物であることがわかる。Eine Ware scheint auf den ersten Blick ein selbstverständliches, triviales Ding. Ihre Analyse ergibt, daß sie ein sehr vertracktes Ding ist, voll metaphysischer Spitzfindigkeit und theologischer Mucken.〔・・・〕 商品形態の謎めいた性格[Das Geheimnisvolle der Warenform ]とは偏に次のことにある;商品形態が彼ら自身の労働の社会的性格を、諸労働生産物自身がもつ対象的な諸性格、これら諸物の社会的な諸自然属性として、人の眼に映し出し、したがって生産者たちの社会の総労働との社会的関係を彼の外に存在する諸対象の社会的関係として映し出す。この置き換えに媒介されて労働生産物は商品、すなわち人にとって、超感覚的な物あるいは社会的な物[sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge]になる。〔・・・〕 (商品がもつ謎めいた性格の)類例を見出すには宗教の領域[die Nebelregion der religiösen Welt ]に赴かなければならない。そこでは人間のこしらえた物が独自の命を与えられて、相互に、また人々に対していつでも存在する独立に姿で現れるからである。同様に、商品世界では人の手の諸生産物が命を吹き込まれて、互いに、また人間たちとも関係する自立した姿で表れている。 これを私はフェティシズムと名づける。それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.(マルクス 『資本論』第一篇第一章第四節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」) |
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マルクスは商品の奇怪さについて語ったが、われわれもそこからはじめねばならない。商品とはなにかを誰でも知っている。だが、その「知っている」ことを疑わないかぎり、商品の奇怪さはみえてこないのである。たとえば、『資本論』をふりまわすマルクス主義者に対して、小林秀雄はつぎのようにいっている。 《商品は世を支配するとマルクス主義は語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせる力をもつものなのである。》(「様々な意匠」) むろん、マルクスのいう商品とは、そのような魔力をもつ商品のことなのである。商品を一つの外的対象として措定した瞬間に、商品は消えうせる。そこにあるのは、商品形態ではなく、ただの物であるか、または人間の欲望である。言うまでもなく、ただの物は商品ではないが、それなら欲望がある物を商品たらしめるのだろうか。実は、まさにそれが商品形態をとるがゆえに、ひとは欲望をもつのだ。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年) |
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柄谷の文に《まさにそれが商品形態をとるがゆえに、ひとは欲望をもつのだ》とあるが、これがラカンのフェティッシュの定義のひとつである。 |
フェティッシュは(欲望の対象ではなく)欲望の原因としての対象の次元 にある fétiche comme tel, …cette dimension de l'objet comme cause du désir. 靴でも胸でも、あるいはフェティッシュとして化身したあらゆる何ものかはーー、欲望される対象ではない。そうではなくフェティッシュは欲望を引き起こす[ le fétiche cause le désir]対象である。… Car ne n'est pas le petit soulier, ni le sein, ni quoi que ce soit où vous incarniez le fétiche, qui est désiré, mais le fétiche cause le désir〔・・・〕 人はみな知っている、フェティシストにとって、フェティッシュは、欲望が自らを支えるための条件だということを。ce que tout un chacun sait, c'est que pour le fétichiste, il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (ラカン , S10, 16 janvier 1963) |
さらにラカンの剰余享楽としての対象a自体がフェティッシュである。 |
私が対象a[剰余享楽]と呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年) |
ここではラカンの剰余享楽についてはこれ以上触れず、柄谷を続ける。 |
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マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年) |
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ここで柄谷は事実上、あらゆる記号はフェティッシュだと言っている。これは前期ラカンもほとんど同じことを言っている。 |
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人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある。pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste. (Lacan, S4, 21 Novembre 1956) |
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つまりマルクスの価値形態論とはフェティシズム論であると同時にコミュニケーション論なのである。 |
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マルクスは、古典経済学が冷笑した“幻想”をこそ重視したのである。価値形態をとりだすということは、価値尺度や流通手段にとどまらないような呪物としての貨幣をとりだすことであり、あるいは交換の非合理性(無根拠性)をとりだすことである。だが、この解明が、貨幣のフェティシズムから商品のフェティシズムのレベルに遡行されてなされるとき、それがもはやいかなる意味でも啓蒙主義的でありえないことに注意すべきであろう。それは、“幻想”を批判しうるような合理的立場にいたるのではなく、商品であれ言語であれ、交換という行為にともなう“悲劇的”な条件を照らし出すことになるからである。(柄谷行人『探求』1986年) |
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広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。〔・・・〕その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年) |
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商品であれ言語であれ、すべての記号はフェティッシュである。 |
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言語の症状とは象徴界の症状である、ーー《象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage]》(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)。ラカンにとって想像界は象徴界によって構造化されており、イマージュも事実上、言語の症状である。ラカンにおいてこれ以外に欲動の身体にかかわる現実界の症状(サントーム)があるが、このリアルな症状自体、フェティッシュに近似する(参照)。
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※付記
◼️『マルクスその可能性の中心』英語版序文 柄谷行人 Marx:Towards the Centre of Possibility Foreword Kojin Karatani 【群像】2020年3月 |
本論は、一九七三年に私が書いた“文学批評”の一つである。私はこれを月刊の文芸誌「群像」に連載した。しかし、私がそうしたのは、このような哲学的内容の論考を載せるのが日本の文芸誌の慣例であったからではない。むしろ、こんな評論が商業的文芸誌に小説と並んで載ったのは初めてともいえることであった。とはいえ、このような論が文芸誌以外の所で、たとえば、哲学・社会科学の専門誌で掲載されることはなかっただろう。それら専門領域の型におさまるようなものではなかったからである。その意味でも、これはやはり文学批評であった。 |
日本では一九五〇年代後半に、新左翼の運動が生まれた。それはハンガリー動乱とともに起こったスターリニズム批判の影響によるといってよいが、同時に、当時日本で、急激な経済成長が始まっていたことと関連する。それまでの左翼の理論では説明できない事態、たとえば、大衆社会、消費社会が急激に出現したのである。それとともに隆盛した新左翼の運動は、一九六〇年に日米安保条約改定をめぐる全国的な政治闘争を通して、それまであった共産党の権威を失墜させた。ある意味で、一九六八年にヨーロッパやアメリカで起こったようなことが、日本ではこの時点で生じたのである。私は一九六〇年に東京大学に入り、ただちに“安保闘争”に参加した。しかし、私が左翼の理論について考えるようになったのは、むしろこの闘争が敗北に終わったあとからである。 |
一九五〇年代後半に出現した新左翼の理論には、大まかにいうと、三つの流れがあった。それらは、いずれも、マルクスの仕事に由来するものであった。一つは、初期マルクス(疎外論)に向かうものであり、詩人・文芸批評家吉本隆明(1924-2012)に代表される。もう一つは、史的唯物論を、初期マルクスを超克するものとして読み直し再建しようとするものであり、哲学者廣松渉(1933-1994)に代表される。第三は、マルクスの独自性を『資本論』に見いだすものであり、経済学者宇野弘蔵(1897-1977)に代表される。 |
私はこの三人から、それぞれ影響を受けた。たとえば、私が文学批評に向かったのは吉本隆明の影響である。一方、吉本が依拠した初期マルクスの理論を斥けたのは、廣松渉の影響である。彼は、アルチュセールがマルクスの「認識論的切断」と呼んだような過程が、エンゲルスによって先取りされたことを実証したのである。しかし、他方で、私はより大きな影響を、経済学者宇野弘蔵から受けた。 |
宇野の考えでは、『資本論』は、史的唯物論を「導きの糸」とはするものの、それとは異なる見方と方法によって書かれている。史的唯物論は、社会構成体の歴史を生産様式(生産力と生産関係)という経済的土台から見るものである。それに対して、『資本論』は、商品交換から始め、それが資本として生産関係を編成し規制するにいたる過程を示すことで、資本制経済を解明する。したがって、史的唯物論と『資本論』の違いは明らかであったが、マルクス主義者は概してそれを無視し、何とかそれらを接合しようとしていたのである。その中で、宇野はそれらを峻別し、『資本論』は“科学”であり、史的唯物論は“イデオロギー”であると主張した。ただし、このイデオロギーは“導きの糸”としては必要であるというのだが。 |
さらに、『資本論』の読解に関しても、宇野は独創的であった。一般に、『資本論』はスミス、リカードら古典経済学の「労働価値説」を受け継ぐものだと見なされているが、宇野は『資本論』では、生産よりむしろ交換が重視されていること、また、資本はその本性において商人資本であることを強調したのである。私は宇野の考えに惹かれて、経済学部に進んだ。すでに宇野は退職していたが、宇野学派の教授が大勢いたからである。しかし、まもなく私は経済学への関心を無くした。さらに、卒業後は文学に転向して批評家となった。そのとき、私は『資本論』への関心を捨てたのではない。ただ、それを経済学者として研究する気にならなかったのである。私にとって、『資本論』が照明した資本主義経済は、物質的というよりも、信用にもとつく観念的上部構造であるように見えた。そして、それは生産よりも、交換の困難から生じたものである。マルクスは、交換は共同体と共同体の問で始まる、という。その場合、見知らぬ不気味な他者との交換を保証するような「力」は、どこから来るか。彼はそれを、物に付着する物神(フェティッシュ)に見いだした。その意味で、『資本論』は物神(商品)がマモン(資本)に発展する過程を描いた作品であると私は考えた。が、そのようなものとして『資本論』を読むことは、経済学の領域ではありえなかった。かといって、それは哲学の領域でもありえなかった。 |
マルクスはいう。《商品は、一見したところ、わかりきった平凡な物に見える。だが、これを分析してみると、きわめて面倒なもの、形而上学的な小理屈や神学的な偏屈さでいっぱいのものであることがわかる》(第一巻第一章第四節)。つまり、『資本論』は、たんに形而上学や神学の問題を斥けるのではなく、それらを「わかりきった平凡な物」の中に見いだすような著作なのだ。私はそれを論じることができるのは、文学批評以外にないと考えた。しかし、そのような仕事を実際に開始したのは、一九七三年、すなわち、文芸批評家として文学作品を論じた本を二冊出したあとであった。この時期にマルクス論を書いたことには、もう一つの理由がある。六〇年代末の新左翼運動が破綻し、「マルクス主義の終焉」という声が支配的となっていたからだ。私にとってそれは新しくもなかった。そのような声は六〇年代の初めにもあり、私が『資本論』を熟読するようになったのは、むしろそのような状況においてであったから。 |
そういうわけで、『マルクスその可能性の中心』は、文学批評の観点から『資本論』を読む企てであった。私がいう「可能性の中心」とは、テクストに明示されずにある意味を指す。それはテクストの「中心」というよりもむしろ「周縁」にある。私はそのような見方をポール・ヴァレリーの批評から学んだ。のみならず、マルクス自身の言葉にそれを見いだしたのである。たとえば、彼は一八五八年、ラッサール宛書簡で、かつて学位論文として書いた『デモクリトスとエピクロスの差異』に関して、こう述べた。 |
君がこの仕事で克服しなければならなかった困難は、僕も約一八年まえにもっとずっとやさしい哲学者エピクロスについて似たような仕事──つまり断片からの全体系の叙述をやったので、僕にはよくわかっている。ついでだが、この体系については、ヘラクレイトスの場合と同じように、体系はただそれ自体エピクロスの著作のなかにあるだけで、意識的な体系化のなかに存在しなかった、と僕は確信している。その仕事に体系的な形をあたえている哲学者たち、たとえぼスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、彼によって体系が意識的に叙述された形式とはまったくちがっている。(一八五八年五月三一日、『マルクス=エンゲルス全集29巻 書簡集1856-1859』大月書店) |
私はマルクスの「体系」について、同様に考えようとした。たとえば、『資本論』はへーゲルの論理的体系にもとついて書かれているが、その「内的構造」は「意識的に叙述された形式とはまったくちがっている」、というふうに。また私は、『資本論』に書かれた経済学的問題を、それとは異なる観点からも見ようとした。すなわち、商品交換を言語的交換=コミュニケーションの観点から考えようとしたのである。そのとき、私はソシュールの言語学理論に、マルクスと類似する思考を見いだした。 |
マルクスは冒頭の「価値形態論」において、商品の価値を、商品らの関係体系において見ようとした。同様に、ソシュールは、言語(ラング)を、シニフィアンの共時的な示差的体系としてとらえた。それは、ある語の意味は、それ以外の語との関係によって決まるということである。共時的な体系は、その中の一要素が変わるだけで、別の共時的体系となる。ゆえに、言語の通時的な連続的変化と見えるものは、ある共時的体系から別の共時的体系への非連続的な変化である。このような考えが「構造主義」の源泉となった。しかし、私を震憾させたのはむしろ、ソシュールが複数の体系の間での交換=コミュニケーションを考えていたことである。 |
たとえば、一つの体系の中のある語が、別の体系に翻訳される場合、“意味”が同じであっても、他の語との関係が異なるために、異なる“価値”をもつと、彼はいう。私はここから、剰余価値を考えるためのヒントを得た。つまり、剰余価値は異なる体系の間での交換から生じる差額だと考えてよい。商人資本は安く買って高く売る、と古典派経済学者はいう。しかし、商人は不等価交換をしているのではない。ある物が一つの共時的体系のなかでは安く、他の体系の中では高いということがありうる。すると、どちらでもそれぞれ等価交換がなされるにもかかわらず、交換から差額が生じる。そのとき獲得する商人が不当であるとはいえない。概して、そのような差異が生じるのは、遠隔地の間の交易においてである。 |
アダム・スミスは商人資本を非難し、産業資本が得る利潤を正当化した。それは等価交換を通して得るものだからという理由で。しかし、産業資本も等価交換を通して差額から利潤を得るのだ。つまり、産業資本は労働市場で労働力商品を買い、労働者が生産した物を市場で売るわけだが、その差額から剰余価値を得るのである。商人資本も産業資本も等価交換にもとついている。ただ、両者の違いは次の点にある。商人資本の場合、差額は共時的体系の空間的な差異から来る。ゆえに、遠隔地に向かうことになる。一方、産業資本の場合、差額は共時的体系を時間的に差異化することから来る。それは、技術革新によって価値体系を差異化することによってなされる。そして、そのことが産業資本をたえまない技術革新にかりたてる。しかし、以上のような違いがあるとしても、資本が差額から剰余価値を得て自己増殖するということにおいて違いはない。その意味で、資本は本質的に商人資本なのであり、その蓄積は、マルクスがいったように、M-C-M’というフォーミュラとして定義することができる。 |
以上の点を、私はソシュール言語学をヒントにして考えた。だが、のちに気づいたことだが、私が『資本論』の読解においてソシュール言語学を導入したことには、たんなる類推以上の根拠があった。ソシュール自身、言語における共時的体系を経済学とのアナロジーから考えたのである。彼が念頭においていたのは、スイスにいた経済学者レオン・ワルラスの一般均衡理論である。いうまでもなく、これは古典派の労働価値説を斥けて、価値を限界効用から考えた、新古典派の理論である。ゆえに、『資本論』と反対のように見えるが、実はそうではない。第三巻に示されるように、マルクスは、労働価値とは別の生産価格を考え、また、地代に関してリカードの差額地代論を考察していた。リカードは古典派であるが、地代ば関しては古典派の「平均」概念に対して、「限界」概念を持ち込んだのである。また、マルクスが一八七〇年以後微分学を研究していたのもそのことと関連するだろう(『数学手稿』)。これは、彼が同時期にあったメンガーやワルラスの「限界革命」に近い問題意識をもっていたことを意味する。 |
さらにいえば、ソシュールの考えは経済学でいえぼ、古典派を超えるだけでなく、新古典派をも超えるものであった。彼はたんに共時的体系を考察しただけでなく、異なる共時的体系の問での交換(コミュニケーション)を考えようとしたからだ。しかし、それはまた、マルクスの「経済学批判」が、古典派のみならず新古典派への批判をも含意することを意味する。そして、そのことは、マルクスが資本主義経済の問題を「交換」から考えようとしたことから来る、と私は思う。 |
『マルクスその可能性の中心』以後、私は、他者との交換=コミュニケーションに存する問題を根本的に考え直そうと試みた。考察を言語論そのもの、さらに、数学基礎論へと進めた。さらに、長年にわたって「群像」に連載することになった哲学的なエッセイ「探究」へ。この間、マルクスについて本格的に論じたことはなかった。再び、書き始めたのは、一九九〇年代に入ってからである。ソ連邦が崩壊し、米ソの冷戦時代が終わった。そこで「歴史の終焉」、「マルクス主義の終焉」が世界的に叫ばれた。しかし、それ以前から、史的唯物論は否定されないまでも、その権威を無くしていた。思いおこすと、私がマルクスについて書いたのは、決まってマルクス主義が没落した時期である。九〇年代にも同様であった。 |
史的唯物論では、生産力と生産関係が土台にあり、それが観念的・政治的な上部構造を規定していると見なされる。しかし、このような「経済的決定論」では、国家・宗教などの「上部構造」を解明できない。国家や宗教は、経済的な土台では説明できず、また解消できないような「力」(パワー)をもっている。そこで、政治的・観念的な上部構造は、経済的土台によって決定されるとしても、相対的自律性をもつということが一般に承認されるようになった。だが、これでは、経済的土台による規定を否定しないとしても、あえて強調するほどのことでもなくなってしまう。したがって、経済的土台という考えは、事実上没却されるようになったのである。 |
一九九〇年代に、私は史的唯物論の問題をあらためて考えた。そのとき私は、歴史的な社会構成体の「経済的土台」を「生産」ではなく、「交換」に見いだしたのである。この場合、交換は生産に対して副次的なものではなく、それに先行するものだ。私はすでに『マルクスその可能性の中心』で、「交換」を広い意味で考えていた。ただ、それは言語論的であって、狭義の経済学的な思考を出るものではなかった。しかし、九〇年代に、私は交換を、人が通常、交換とみなさないような領域に見いだしたのである。 |
すでにマルセル・モースは、氏族社会の経済的土台を贈与──お返しという互酬交換に見いだしていた。私はそれを交換様式Aと呼ぶ。これが共同体を構成する「力」をもたらす。さらに私は、国家もまた、国民の自発的な服従-国家による保護という交換によって成り立つと考えた。それを交換様式Bと呼ぶ。武力とは異なる、国家の「力」はそこから来る。それらに対して、通常の商品交換を私は交換様式Cと呼ぶ。ここから、貨幣の「力」が生じるのだ。 |
以上の三つに加えて、それらを揚棄しようとする交換様式Dがある。これは歴史的には、古代帝国の時代に普遍宗教というかたちをとってあらわれた、いわぼ、神の「力」として。Dは局所的であれ、その後の社会構成体のなかに存続してきた。それはたとえぼ、一九世紀半ばに共産主義思想としてあらわれたのである。マルクスは晩年にL・H・モーガンの『古代社会』を論じて、共産主義は氏族社会(A)の”高次元での回復”であると述べた。いいかえれぼ、交換様式DはAの“高次元での回復”にほかならない。 |
社会構成体は歴史的に、これらの交換様式の接合体としてあった。氏族社会では、交換様式Aが支配的である。注意すべきなのは、この段階でも、交換様式BやCが萌芽的に存在することだ。Bが支配的となるにつれて、国家が形成される。このとき、Aは消滅するのではなく、国家や領主に従属する農業的共同体として存続する。一方、CはBが発展するにつれて広がった。つまり、領域国家が形成される段階で、貨幣経済が発展した。古代の世界帝国の段階で、Bの下でAとCが接合されるにいたった。 |
交換様式Cが社会構成体において優越的となったのは、産業資本が出現した段階である。そして、マルクスは『資本論』でそれを解明したのである。ただ、交換様式の観点からいえば、交換様式の接合としてある社会構成体が、産業資本が出現した時点でつぎのように変容したことに留意すべきである。すなわち、AやBは、Cの優位の下で消滅したのではなく、変形された。たとえば、Bは市民国家というかたちをとり、Aは“想像の共同体”としてネーションを形成する。いいかえれぼ、資本=ネーション=国家が形成されたのである。 |
私は以上のような考えを、九〇年代の末に『トランスクリティーク──カントとマルクス』で提起した。しかし、そこではまだ、それをマルクスやカントのテクストの読解として述べる、つまり、文学批評的なスタンスをとっていた。その論を連載したのも文芸雑誌であった。その後、私はそのようなスタンスを棄てて、自分の理論を体系的に構築するようになった。狭義の文学批評の仕事もやめてしまった。以来私がやってきたのは、あえていえば、『資本論』を大まかな“導きの糸”としつつ、史的唯物論を“科学”として再構築することであった。そして、それは経済的土台を、生産様式ではなく交換様式に、見出すものだ。その仕事が『世界史の構造』(二○一○年)である。そこで私は、マルクスとは異なる認識を語ったというべきだろう。しかし、私は、むしろそこに「マルクスその可能性の中心」がある、と考えているのである。 |
※本評論は、2020年3月に Verso より刊行される、『マルクスその可能性の中心』の英訳 Marx:Towards the Centre of Possibility の序文として書かれた。 |