前々回、マルクスの価値形態論に関してヴァレリーを引用した。ここではヴァレリーによるマルクスに直接かかわる言葉をいくつか拾ってみよう。 |
昨晩、読み返したよ(少しばかり)、『資本論』をね‼︎ ぼくはあれを読んだ数少ない人間の1人だ。ジョレス〔当時代表的な社会主義者〕自身は--(読んでいないように見える)。〔・・・〕『資本論』といえば、この分厚い本はきわめて注目すべきことが書かれている。ただそれを見つけてやりさえすればいい。これはかなりの自負心の産物だ。しばしば厳密さの点で不十分であったり、無益にやたらと衒学的であったりするけれど、いくつかの分析には驚嘆させられる。ぼくが言いたいのは、物事をとらえる際のやり方が、ぼくがかなり頻繁に用いるやり方に似ているということであり、彼の言葉は、かなりしばしば、ぼくの言葉に翻訳できるということなんだ。対象の違いは重要ではない。それに結局をいえば、対象は同じなんだから!(ヴァレリー、1918年5月11日、ジッド宛書簡、山田広昭訳) |
ここからヴァレリーは芸術論を展開している。 |
要するに、芸術作品とは一個の対象物(オブジェ)であり、ある個人たちにある種の働きかけを行おうとしてつくられた、人間による制作物であります。個々の作品とは、あるい言葉の物質的な意味における物体(オブジェ)であり、あるいは、舞踊や演劇のように行為の連鎖であり、あるいは――音楽がそうなのですが――同じく行為によって産出される継起的印象の合計であります。こうした対象物を起点とする分析によって、私たちは、私たちの芸術概念を明確にしようと試みることができます。こうした対象物こそ、私たちの探求の確実な要素にほかならぬと見なしうるものなのです。こうした対象物を考察することによって、そしてまた、一方ではそれらの作者へと遡行し、他方ではそれらが感動作用を及ぼす人間へと遡行することによって、私たちは、〈芸術〉という現象がふたつのそれぞれ完全に区別されて変形されうるということを見出すのです(それは経済学において生産と消費のあいだに存在する関係と同じ関係であります)。 |
きわめて重要なのは、これらふたつの変形作用――作者からはじまって製造された物体における変形作用と、その物体つまり作品が消費者に変化をもたらすという意味での変形作用――が、相互に完全に独立しているということです。その結果として、このふたつの変形作用は、それぞれべつべつに考えられるべきである、ということになります。 みなさま方は、作者、作品、観客あるいは聴き手という三つの項を登場させて命題をお立てになる。しかし、この三つの項を統合するような観察の機会は、けっしてみなさま方のまえにあらわれないだろうという意味で、そういう命題はすべて無意味な命題なのです。〔・・・〕 |
私の辿りつく点というのはこうです。―――芸術という価値は(この言葉を使うのは、結局のところ私たちが価値の問題を研究しつつあるからですが)この価値は本質的に、いま申したふたつの領域(作者と作品、作品と観察者)の同一視不能、生産者と消費者のあいだに介在項を置かねばならぬというあの必然性に従属しているということです。重要なのは、生産者と消費者とのあいだに精神に還元できぬなにものかがあって、直接的交渉が存在しないということ、そして作品というこの介在体は、作者の人柄や思想についてのある概念に還元できるようななにごとも、その作品に感動する人間にもたらさぬということなのです。〔・・・〕 |
芸術家と他者(読者)このふたりの内部にそれぞれなにが起こったか、それを厳密に比較するための方法など、絶対にいつになっても存在しないでありましょう。そればかりではありません。もし、一方の内部で起こったことが他方に直接的に伝達されるのだとすれば、芸術全体が崩壊するでありましょう。芸術のもつ力のすべてが消失するでありましょう。他者の存在に働きかける新しい不浸透性の要素の介在がせひとも必要なのです。(ヴァレリー『芸術についての考察』清水徹訳) |
柄谷行人は上の「作者、作品、観客、価値」をめぐる文を引用して次のように注釈している。 |
こうして、ヴァレリーは、作品の価値の窮極的な根拠を、両方の過程が互いに切りはなされていて不透明であるところに求めている。〔・・・〕 ここでヴァレリーのいう価値は、マルクスのいう剰余価値にあたっている。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年) |
ここで前々回示したマルクスの価値形態論のラカンによる構造化図式を再掲しよう。そこでは省いたが、精緻版にあるコミュニケーションの不可能性[Impossible]と使用価値と剰余価値の合致の不能性[impuissance]用語も付け加える。 |
この図に「作者、作品、観客、価値(剰余価値)」を当てはめれば、次のようになる。
これが、ラカンによるマルクスの価値形態論図式化を適用したヴァレリーの「芸術についての考察」図である。
ちなみに柄谷行人は先ほどの注釈に引き続いてこう書いている。
作者がある考えや感覚を作品にあらわし、読者がそれを受けとる。ふつうはそう見え、そう考えられているが、この問題の〈神秘的〉性格を明らかにしたのはヴァレリーである。彼は、作品は作者から自立しているばかりでなく、“作者”というものをつくり出すのだと考える。作品の思想は、作者が考えているものとはちがっているというだけでなく、むしろそのような思想をもった“作者”をたえずつくり出すのである。たとえば、漱石という作家は幾度も読みかえられてきている。かりに当人あるいはその知人が何といおうが、作品から遡行される“作家”が存在するのであり、実はそれしか存在しないのである。客観的な漱石像とは、これまで読んだひとびとのつくった支配的イメージにほかならないのだ。マルクス像についても同様のことがいいうる。”真のマルクス”などというものはありはしないのである。 |
読むことは作者を変形する。ここでは”真の理解”というものはありえないので、もしありえたとすれば、いわば歴史というものが完結してしまう。ヘーゲルの美学がその歴史哲学と同様に、”真の理解”によって完結してしまうのはそのためだ。それは、作品というテクストが、作者の意識にとっても読者の意識にとってものりこえられず還元もできない不透明さをもって自立するということをみないからである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年) |
………………
ところでムッシュー・クロッシュはこう言っている。 |
ムッシュー・クロッシュ)作品を通して、それらを生み出させた様々な衝動や、それらが秘めている内的な生命を見ようとするんです。めずらしい時計かなぞのように作品を分解することで成り立つ遊びより、ずっと面白くはありませんか ? (『ドビュッシー作曲論集『反好事家八分音符氏』) |
ムッシュー・クロッシュとはもちろん、ドビュッシーが創り上げた架空の人物である。 |
この発言は上の交換図とはやや異なった、後期ラカンのジャック=アラン・ミレールによる図式が適用できる。 |
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地階の「斜線を引かれた享楽とは「斜線を引かれた主体$」あるいは穴Ⱥと等価である。
私は斜線を引かれた享楽を斜線を引かれた主体と等価とする[(- J) ≡ $] le « J » majuscule du mot « Jouissance », le prélever pour l'inscrire et le barrer …- équivalente à celle du sujet :(- J) ≡ $ (J.-A. MILLER, Tout le monde est fou, 04/06/2008) |
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穴は斜線を引かれた主体と等価である[Ⱥ ≡ $] A barré est équivalent à sujet barré. [Ⱥ ≡ $](J.-A. MILLER, -désenchantement- 20/03/2002) |
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すなわち$≡(- J)≡Ⱥ。(かつまた穴Ⱥは去勢(-φ)、リアルな対象aと等価[参照])。 |
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この穴Ⱥは、欲動の身体の穴という意味を持っている。 |
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身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice) |
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欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou」(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975) |
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ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる [Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011) |
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他方、上辺のAは大他者だが、この大他者は欲動の身体の表象化という意味を持っている。つまりは「作品」と置ける。 |
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残滓とは作品のなかに残存する欲動の身体である。 |
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この残滓にムッシュー・クロッシュの言う「作品を生み出させた様々な衝動や、それらが秘めている内的な生命」がある。 とはいえこの残滓を感じ取るあり方も芸術作品の受け手によって異なる。結局、芸術から受け取るのは鑑賞者自らの内部にあるものだから。
したがってヴァレリー版の価値形態論図式の示していることから免れることはできない。 ※なお残滓a は剰余享楽aとは異なるので注意。残滓についての詳細は「残滓という原始時代のドラゴン」参照。 |