2022年5月5日木曜日

沈黙の声の言説

 このところマルクスの価値形態論とラカンの言説理論をめぐって記しているが、ここで簡単に復習しておく。


ラカンは言説を1972年に次のように定義している。


言説とは何か? それは、言語の存在によって生じうる秩序において、社会的結びつきの機能を作るものである。[Le discours c’est quoi ? C’est ce qui, dans l’ordre… dans l’ordonnance de ce qui peut se produire par l’existence du langage, fait fonction de lien social. ](Lacan à l’Université de Milan le 12 mai 1972)

言説はそれ自体、常に見せかけの言説である[le discours, comme tel, est toujours discours du semblant ](Lacan, S19, 21 Juin 1972)


つまり言説は言語を通した社会的結びつきであり、これを見せかけ(仮象)と呼んだ。


この見せかけとしての社会的結びつきの別名は症状である。


社会的結びつきは症状である[le lien social, c’est le symptôme] (J.-A. Miller, Los inclasificables de la clínica psicoanalítica, 1999)


ラカンはこの症状をマルクスーー事実上、マルクスの価値形態論ーーに結びつけている。


症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、私は何度か繰り返し示してきたが、マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.(Laca,.S.18,16 Juin 1971)


この症状は、何よりもまずマルクスとラカンの次の二文に収斂する。


一商品の価値は他の商品の使用価値で表示される[der Wert einer Ware im Gebrauchswert der andren. ](マルクス『資本論』第一篇第三節「相対的価値形態Die relative Wertform」)

一つのシニフィアン(S1)は他のシニフィアン(S2)に対して主体($)を表象する[ un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant ](ラカン「主体の転覆」E819, 1960年)




ここには剰余価値が示されていないが、マルクスは次のように言っている。


商品のフェティシズム…それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。[Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.](マルクス 『資本論』第一篇第一章第四節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)


そしてこのフェティッシュはラカンの剰余享楽としての対象aに相当する。


私が対象a[剰余享楽]と呼ぶもの、それはフェティッシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年)

剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)


ラカンにおいて交換価値、使用価値、剰余価値も含めた発言は次にある。


主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって代表象されうるものである[Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant]。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値[valeur d'échange] として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体[le sujet de la valeur] d'échange は何に対して代表象されるのか? ーー使用価値[valeur d'usage] である。


そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値[plus-value]と呼ばれるものである。(ラカン, S16, 13 Novembre 1968)



より詳しいマルクスとラカンの記述は「価値形態論の三角形と四角形」で示したが、ここではラカンの言説理論図とその図式適用したマルクスの価値形態論図のみを掲げる。




ラカンはここから四つの言説を展開した。そして後にプラスアルファとして資本の言説を。だがこの「言語=社会的結びつき」の多様性自体、マルクスにその示唆がある。



経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。

Weniger als jeder andere kann mein Standpunkt, der die Entwicklung der ökonomischen Gesellschaftsformation als einen naturgeschichtlichen Prozeß auffaßt, den einzelnen verantwortlich machen für Verhältnisse, deren Geschöpf er sozial bleibt, sosehr er sich auch subjektiv über sie erheben mag. (マルクス『資本論』第一巻「第一版序文」1867年)


結局、言説という社会的結びつき[le lien social]はここに現れる社会的関係[soziale Verhältnisse]の多様性に他ならない。ラカンはその基本としてまず四つの社会的関係を示したのである。すなわち四つの言説とは「四つの社会的関係」であり、かつまた上に示したように「四つの症状」である。


フロイトにとってすべての症状は抑圧されたものの回帰である。


症状形成の全ての現象は、「抑圧されたものの回帰」として正しく記しうる[Alle Phänomene der Symptombildung können mit gutem Recht als »Wiederkehr des Verdrängten« beschrieben werden.](フロイト『モーセと一神教』3.2.6、1939年)


したがって四つの言説としての四つの症状は、「四つの抑圧されたものの回帰」と呼びうる。


事実、すべての言説の特徴は、抑圧された要素が動作主の言動を動機付ていることである[Indeed, characteristic of all discourse is that a repressed element motivates the agent's actions](Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis, 2016,)


ーーここで動作主[agent]とあるのが言説の次の四つの言説図のそれぞれの左上にある要素、抑圧された要素が左下の要素であり、例えば主人の言説であれば抑圧された主体$が回帰している。





ここでは対象aに焦点を当てて記述すれば、四つの社会的関係のベースは糞便関係である。あとはそれぞれ左右に45度回転させることにより、口唇関係、眼差し関係、沈黙の声関係がある(より基本的な読み方は「四つの言説基本版」を見られたし。四つの言説におけるS1, S2, $, aはそのポジションによって意味合いが多少変わることにも注意しなければならない)。


最初期のジジェクは、ジャック=アラン・ミレールのセミネールに準拠してだが、既にこう書いている。


主人の言説では、一つのシニフィアン(S1)が、他のシニフィアン、あるいはもっと正確にいえば他のすべてのシニフィアン(S2)に対して斜線を引かれた主体($)を代表象する。もちろん問題は、この表象作用の作業が行われるときにはかならず、小文字のaであらわされる、ある厄介な剰余、ある残滓、あるいは「排泄物」[some disturbing surplus, some leftover or "excrement,"]を生み出してしまうということである。他の言説は結局、この残滓aと「折り合いをつけ」、うまく対処するための、三つの異なる企てである。(ジジェク『斜めから見る』1991 年)



四つの言説のベースは主人の言説なのであって、何よりもまずこの言説の構造はマルクスの価値形態論にある。


四つの言説[Les Quatre Discours]における主人の言語[Le discours du Maître]は支配の言説という意味もあるが、より基本的には「シニフィアンの主体の言説」「私表象の言説」「主語の言説」である。


ヒステリーの言説[Le discours de l'Hystérique]は巷間で言われるヒステリー的発作のたぐいの意味ではなく「欲望の言説」「不満の言説」である。


大学の言説[Le discours de l'Université]は教育機関としての大学というよりも、「知の言説」「専門家の言説」である。このS2(知)の言説は、ヘーゲル的な主人奴隷ーー主人S1に対する奴隷S2ーーという意味でも使われる。


分析の言説[Le discours de l'Analyste]は「沈黙の声の言説」である。分析の言説は単に精神分析治療における分析家の社会的関係ではない。


分析の言説における沈黙の声としての対象aは、いくらか難解なので注釈を掲げよう。


われわれが無闇に話すなら、われわれが会議をするなら、われわれが喋り散らすなら、…ラカンの命題においては、沈黙すること[faire taire] が「対象aとしての声 [voix comme objet a]」と呼ばれるものに相当する。(ジャック=アラン・ミレール、«Jacques Lacan et la voix» 、1988)


ーー《分析家の沈黙ーーそれは、相互作用におけるコミュニケーションを期待している分析主体(被分析者)をしばしば当惑させるーー、その沈黙は対象a として機能する。》(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis, 2016)


これまたこの沈黙の声(a)の意味合いについてジジェクが巧みに説明している。


ソクラテスは、その質問メソッドによって、彼の相手、パートナーを、ただたんに問いつめることによって、相手の抽象的な考え方をより具体的に追及していく(きみのいう正義とは、幸福とはどんな意味なのだろう?……)。この方法により、対話者の立場の非一貫性を露わにし、相手の立場を相手自らの言述によって崩壊させる。


ヘーゲルが女は《コミュニティの不朽のイロニーである》と書いたとき、彼はこのイロニーの女性的性格と対話法を指摘したのではなかったか? というのはソクラテスの存在、彼の問いかけの態度そのものが相手の話を「プロソポピーア」に陥れるのだから。


会話の参加者がソクラテスに対面するとき、彼らのすべての言葉は突然、引用やクリシェのようなものとして聞こえはじめる。まるで借り物の言葉のようなのだ。参加者は自らの発話を権威づけている奈落をのぞきこむことになる。そして彼らが自らの権威づけのありふれた支えに頼ろうとするまさにその瞬間、権威づけは崩れおちる。それはまるで、イロニーの無言の谺が、彼らの発話につけ加えられたかのようなのだ。その谺は、彼らの言葉と声をうつろにし、声は、借りてこられ盗まれたものとして露顕する。


ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫してしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。


この意味で、ラカンにとって、ソクラテスのイロニーとは分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか? …神秘的な「パーソナリティの深層」はプロソポピーアの空想的な効果、すなわち主体のディスクールは種々のソースからの断片のプリコラージュにすぎないものとして、非神秘化される。〔・・・〕


対象a としての分析家は、分析主体(患者)の言葉を、魔術的にプロソポピーアに変貌させる。彼の言葉を脱主体化し、言葉から、一貫した主体の表白、意味への意図の質を奪い去る。目的はもはや分析主体が発話の意味を想定することではなく、非意味、不条理という非一貫性を想定することである。患者の地位は、脱主体化されてしまうのだ。ラカンはこれを「主体の解任」と呼んだ。


プロソポピーア Prosopopoeia とは、「不在の人物や想像上の人物が話をしたり行動したりする表現法」と定義される。〔・・・〕ラカンにとってこれは発話の特徴そのものなのであり、二次的な厄介さなのではない。ラカンの「言表行為の主体」と「言表内容の主体」とのあいだの区別はこのことを指しているのではなかったか? 私が話すとき、「私自身」が直接話しているわけでは決してない。私は己れの象徴的アイデンティティの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は「間接的」である。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年)



このジジェク自体、分析の言説のひとつの解釈に過ぎないが、とても示唆溢れる文である。ソクラテスや女のイロニーだけでなく、ある種の小説や詩、あるいは芸術作品も、ときに分析の言説・沈黙の声の言説として機能しているように私には感じられる。





左下は隠蔽知としたが、これこそ抑圧された知であり、分析家にとっての知ーー分析家は、患者の単独性にきめ細かい注意を払うために、患者についての事前に確立された観念と病理 (S2)を脇に遣るーー、それと同時に欲望の主体$にとっての抑圧された無意識の知が回帰している図である。


そして芸術作品にこの効果がなかったら、芸術とはいったい何だというのか?



ぼくらの内の氷結した海を砕く斧

ぼくは、自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。もし、ぼくらの読む本が、頭をガツンと一撃してぼくらを目覚めさせてくれないなら、いったい何のためにぼくらは本を読むのか? きみが言うように、ぼくらを幸福にするためか? やれやれ、本なんかなくたってぼくらは同じように幸福でいられるだろうし、ぼくらを幸福にするような本なら、必要とあれば自分で書けるだろう。いいかい、必要な本とは、ぼくらをこのうえなく苦しめ痛めつける不幸のように、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。(カフカ 親友オスカー・ポラックへの手紙 1904年1月27日)