中井久夫は、私の知る範囲で、フロイトの「現実神経症」Aktualneurose概念ーー現勢神経症とも訳されるーーについて三度触れている。 |
戦争神経症は外傷神経症でもあり、また、現実神経症という、フロイトの概念でありながらフロイト自身ほとんど発展させなかった、彼によれば第三類の、神経症性障害でもあった。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
今日の講演を「外傷性神経症」という題にしたわけは、私はPTSDという言葉ですべてを括ろうとは思っていないからです。外傷性の障害はもっと広い。外傷性神経症はフロイトの言葉です。 医療人類学者のヤングによれば、DSM体系では、神経症というものを廃棄して、第4版に至ってはついに一語もなくなった。ところがヤングは、フロイトが言っている神経症の中で精神神経症というものだけをDSMは相手にしているので、現実神経症と外傷性神経症については無視していると批判しています(『PTSDの医療人類学』)。 もっともフロイトもこの二つはあんまり論じていないのですね。私はとりあえずこの言葉(外傷性神経症)を使う。時には外傷症候群とか外傷性障害とか、こういう形でとらえていきたいと思っています。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
現実神経症と外傷神経症との相違は、何によって規定されるのであろうか。DSM体系は外傷の原因となった事件の重大性と症状の重大性によって限界線を引いている。しかし、これは人工的なのか、そこに真の飛躍があるのだろうか。 目にみえない一線があって、その下では自然治癒あるいはそれと気づかない精神科医の対症的治療によって治癒するのに対し、その線の上ではそういうことが起こらないうことがあるのだろう。心的外傷にも身体的外傷と同じく、かすり傷から致命的な重傷までの幅があって不思議ではないからである。しかし、DSM体系がこの一線を確実に引いたと見ることができるだろうか。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収) |
・戦争神経症は外傷神経症でもあり、また、現実神経症という、フロイトの概念でありながらフロイト自身ほとんど発展させなかった、彼によれば第三類の、神経症性障害 |
・現実神経症と外傷性神経症について、…フロイトもこの二つはあんまり論じていないのですね。 |
・現実神経症と外傷神経症との相違は、何によって規定されるのであろうか。 |
とあるように、中井久夫は現実神経症と外傷神経症をほぼ等置している。 |
フロイトにおいて現実神経症(現勢神経症)は、例えば次のような形で現れる。 | |||||||||||||||||||||||||
現勢神経症は精神神経症に、必要不可欠な「身体側からの反応」を提供する。dass die beiden Aktualneurosen…das somatische Entgegenkommen für die Psychoneurosen leisten 現勢神経症は刺激性の素材を提供するのである。そしてその素材は、心的に選択された心的外被を与えられる。従って一般的に言えば、精神神経症の症状の核ーー真珠の核にある砂粒ーーは身体-性的な発露から成り立っている。das Erregungsmaterial liefern, welches dann psj'chisch ausgewählt und umkleidet wird, so dass, allgemein gesprochen, der Kern des psychoneurotischen Symptoms ― das Sandkorn im Zentrum der Perle ― von einer somatischen Sexualäusserung gebildet wird. これは不安神経症とヒステリーの関係においていっそう明瞭である。Dies ist für die Angstneurose und ihr Verhältniss zur Hysterie freilich deutlicher (フロイト『自慰論』Zur Onanie-Diskussion、1912年) | |||||||||||||||||||||||||
つまりは次のような関係になっている。 不安神経症概念の説明は最初期に次のような形で現れる。 | |||||||||||||||||||||||||
神経衰弱と不安神経症の主要な特徴は興奮の源泉が身体領域にある。他方、ヒステリーと強迫神経症は心的領域にる。Neurasthenie und Hysterie…einen Hauptcharakter, daß die Erregungsquelle,…auf somatischem Gebiete liegt, anstatt wie bei Hysterie und Zwangsneurose auf psychischem.〔・・・〕 不安神経症は、抑圧された表象に由来しておらず、心理学的分析においてはそれ以上には削減不能であり、精神療法では対抗不能である。Angstneurose …stammt er nicht von einer verdrängten Vorstellung her, sondern erweist sich bei psychologischer Analyse als nicht weiter reduzierbar, wie er auch durch Psychotherapie nicht anfechtbar ist. (フロイト『ある特定の症状複合を「不安神経症」として神経衰弱から分離することの妥当性について』1894年) | |||||||||||||||||||||||||
不安とは後年のフロイトの定義においてトラウマである。 | |||||||||||||||||||||||||
不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) | |||||||||||||||||||||||||
結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年) | |||||||||||||||||||||||||
不安神経症に代表される外傷神経症≒現勢神経症は《精神療法では対抗不能》ゆえに、フロイトは現勢神経症概念自体について「表向きは」はあまり語らなかったように見えるが、現勢神経症とは原抑圧の病いであり、精神神経症は後期抑圧の病いである。 | |||||||||||||||||||||||||
おそらく最初期の抑圧(原抑圧)が、現勢神経症の病理を為す。die wahrscheinlich frühesten Verdrängungen, …in der Ätiologie der Aktualneurosen verwirklicht ist, 〔・・・〕 精神神経症は、現勢神経症を基盤としてとくに容易に発達する。daß sich auf dem Boden dieser Aktualneurosen besonders leicht Psychoneurosen entwickeln,(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) | |||||||||||||||||||||||||
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる。die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. (フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年) | |||||||||||||||||||||||||
フロイトは、原抑圧については語りまくっているので、現勢神経症=原抑圧の病いという立場を取れば、中井久夫曰くの《あんまり論じていない》というのは、いささかmisleading である。 例えば、フロイトが1917年に「トラウマへの固着」と題された講義で、次のように言うとき、現勢神経症のことを言っていると見なしうる。
固着、トラウマとあるが「原抑圧」に関する用語である。
中井久夫はもともとフロイト派ではなく、真にフロイトを深く読み始めたのは、1995年阪神大震災の被災に遭遇してからのように見える。その意味で、現勢神経症と原抑圧(固着)の関係を明瞭には示していないのはやむ得ない。日本における分裂病研究の第一人者だった中井久夫にとってフロイトは「表面的には」あまり役に立たないというのは確かだろう。 とはいえ中井久夫は1995年以降、分裂病(統合失調症)から外傷神経症へ研究対象を移行したとさえ言える。なぜなら統合失調症の底にある外傷を指摘し始めたから。
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なお、ラカンの現実界の症状であるサントームは、事実上、外傷神経症であり、つまりは現勢神経症である、➡︎「サントームは外傷神経症である」 |