たとえ知識があろうとも、それだけでは誰にも行動を促すことはできない。…私たちは自分の知識が導く当然の帰結を、自分で思い描けないから。(ジャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』2005年) |
皆さん、もう既に十分な知識はあるだろうよ、例えば、米ネオコン軍産複合体がウクライナを草刈場にしたように、日台を近未来の草刈場にするだろうことを。 |
プーチンを怒らせるには「ウクライナのNATO加盟」を煽ることだったが、北京を怒らせるには「台湾独立」を煽ることだ。台湾が政府として独立を叫べば北京は必ず武力攻撃をしてくる。独立を叫んでくれないと中国が武力攻撃してこない。戦争が永久に地球上で起きていないとアメリカの戦争ビジネスは儲からない。 バイデンはウクライナと同じ構図を、今度は台湾と日本で築こうとしている。 次にバイデンの餌食になるのは台湾と日本だ!(遠藤誉「ウクライナの次に「餌食」になるのは台湾と日本か?―米政府HPから「台湾独立を支持しない」が消えた!」2022/5/12) |
でも行動を起こせないんだよな、米ネオコンの操り人形に他ならない政治家たち、外務省や防衛省、国際政治家たちに抵抗しようとしてないんだ。 何よりもまず、もうすぐ訪れる近未来のイメージを抱かないとな。 |
未来のイメージを得ることが必要だ。そのイメージは、吐き気を催させるのに足るほどカタストロフィ的で、実現を防ぐための行動を開始させるのに足るほど信憑性がなければならない。ただし、実現を防ぎうるのは、不測の事態が起こる場合を除く。(ジャン=ピエール・デュピュイ「地獄郷を前にしての合理的選択 Rational Choice before the Apocalypse」2007年) |
そして喪に服するんだよ、この今。 |
世界は滅びるという予言が聞き入れられないことに落胆したノアは、ある日、身内を亡くした喪の姿で街に出る。ノアは古い粗衣をまとい、灰を頭からかぶった。これは親密な者を失った者にしか許されていない行為である。誰が死んだのかと周りの者たちに問われ、「あなたたちだ、その破局は明日起きた」と彼は答える。「明後日には、洪水はすでに起きてしまった出来事になっているだろうがね。洪水がすでに起きてしまったときには、今あるすべてはまったく存在しなかったことになっているだろう。洪水が今あるすべてと、これからあっただろうすべてを流し去ってしまえば、もはや思い出すことすらかなわなくなる。なぜなら、もはや誰もいなくなってしまうだろうからだ。そうなれば、 死者とそれを悼む者の間にも、なんの違いもなくなってしまう。私があなたたちのもとに来たのは、その時間を裏返すため、明日の死者を今日のうちに悼むためだ。明後日になれば、手遅れになってしまうのだからね」。その晩、大工と屋根職人がノアの家を訪れ、「あの話が間違いになるように」箱舟の建造を手伝いたいと申し出る。……(ギュンター・アンダース「ノアの寓話」摘要) |
米ネオコン世界資本主義による大洪水の喪に服するんだ。 |
“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”(後は野となれ山となれ!)、これがすべての資本家およびすべての資本主義国民のスローガンである[Après moi le déluge! ist der Wahlruf jedes Kapitalisten und jeder Kapitalistennation. ](マルクス『資本論』第1巻「絶対的剰余価値の生産」) |
未来の固定された点ーー地獄郷ーーに立って、現在という過去を眺めて見るんだ。 |
プロジェクトの時間(投射の時間 le temps du projet )は支配的議論の原理を覆す。過去は取り消せないものではない。過去は固定化されていない。現在の行為が、過去の上に反事実的力をもつ[Le passé n'est pas irrévocable, il n'est pas fixe, l'action présente a un pouvoir contrefactuel sur le passé.] |
(Jean-Pierre Dupuy, 「啓蒙カタストロフィ主義のために ーー不可能性が確実になるとき Pour un catastrophisme éclairé Quand l'impossible devient certain」2004) |
そうしたらこの現在という過去は変えられるかも知れない。それしかないね、カタストロフィ的ツナミを避けるためには。 |
カタストロフィ的出来事は運命として未来に刻印されている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていても、起こるはずはなかった、ということだ。この形而上学は、パスカルが言ったように、謙虚な人、ナイーブな人、「非器用な人」の形而上学であり、たとえば、大災害のように突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事がアクチュアルになること――それが起こったという事実こそが、遡及的にその必然性を生みだしているのである。 |
L'événement catastrophique est inscrit dans l'avenir comme un destin, certes, mais aussi comme un accident contingent : il pouvait ne pas se produire, même si, au futur antérieur, il apparaît comme nécessaire. Cette métaphysique, c'est celle des humbles, des naïfs, des « non-habiles », comme aurait dit Pascal – qui consiste à croire que, si un événement marquant se produit, par exemple une catastrophe, il ne pouvait pas ne pas se produire ; tout en pensant que, tant qu'il ne s'est pas produit, il n'est pas inévitable. C'est donc l'actualisation de l'événement – le fait qu'il se produise – qui crée rétrospectivement de la nécessité. |
(ジャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』2005年) |
これがヘーゲル主義者たちの時間性の思考だが、どうすべきだろうね、具体的に? |
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標準的視野によれば、過去は固定化されている[the past is fixed]。既に起こったことが起こったのであり、やり直しはきかない。そして未来は開かれている[the future is open]。未来は予期できない偶然性によって決まる。 デュピュイと私が提案していることは、この標準的視野の転倒である。すなわち過去は開かれている[the past is open]。過去は遡及的な再解釈に開かれている。他方、未来は閉じられている[the future is closed]。その理由はわれわれは(因果的)決定論の世界に生きているから。これは、未来は変えられないことを意味しない。それが意味するのは、未来を変えるためには、われわれは先ず過去を(「理解する」のではなく)変化させなければならないことだ。過去を再解釈すること。過去の支配的視野によって暗示された未来とは別の、異なった未来に向けて開かれているように過去を再解釈すること。(ジジェク、Hegel, Retroactivity & The End of History, 2019) |
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ノアのように自ら灰をかぶるだけではなく、米ネオコン信者たちにみんなして灰をかけるってのはどうだろう? あれら政治家たち、外務省や防衛省、国際政治家たちに? もし安倍晋三の国葬があるんだったら、あの連中の国葬も含めての儀式にすべきだね。
そう、米ネオコン信者の憐れみの服喪からすべてが始まる。カタストロフィ的未来は変わりうる。 馬鹿げている。
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連中は真に精神のかたわである。