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2022年8月5日金曜日

なぜ「死の欲動とレミニサンスと永遠回帰」が等置されるのか

 

◼️反復の原理としての固着


ドゥルーズは『差異と反復』の序章で次のように叙述した。

エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象にかかわる「正式の」抑圧の彼岸に、「原抑圧」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前、あるいは欲動が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。

Érôs et Thanatos se distinguent en ceci  qu'Érôs doit être répété, ne peut être vécu que dans la répétition,  mais que Thanatos (comme principe transcendantal) est ce qui  donne la répétition à Éros, ce qui soumet Éros à la répétition.  Seul un tel point de vue est capable de nous faire avancer dans  les problèmes obscurs de l'origine du refoulement, de sa nature,  de ses causes et des termes exacts sur lesquels il porte. Car  lorsque Freud, au-delà du refoulement « proprement dit » qui  porte sur des représentations, montre la nécessité de poser un  refoulement originaire, concernant d'abord des présentations  pures, ou la manière dont les pulsions sont nécessairement  vécues, nous croyons qu'il s'approche au maximum d'une raison  positive interne de la répétition(ドゥルーズ『差異と反復』「序」1968年)


ここで言われている反復の内的原理としての原抑圧は、フロイトにとって固着、欲動の固着である。


「抑圧」は三つの段階に分けられる「das »Verdrängung«… den Vorgang in drei Phasen zu zerlegen]〔・・・〕


①第一の段階(原抑圧された欲動)は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。〔・・・〕

この欲動の固着[Fixierungen der Triebe] は、以後に継起する病いの基盤を構成する。そしてさらに、とくに三番目の抑圧の相を生み出す決定因となる。[Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege, und können hinzufügen, die Determinierung vor allem für den Ausgang der dritten Phase der Verdrängung. ]


②抑圧の第二段階は、正式の抑圧である。この段階は精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているが、これは自我のより高度に発達した意識システムから生じ、実際には「後期抑圧」と表現できる[Die zweite Phase der Verdrängung ist die eigentliche Verdrängung, die wir bisher vorzugsweise im Auge gehabt haben. Sie geht von den höher entwickelten bewußtseinsfähigen Systemen des Ichs aus und kann eigentlich als ein »Nachdrängen« beschrieben werden.]〔・・・〕

主に①の原初に抑圧された欲動がこの後期抑圧に貢献する[…Beitrag von Seiten der primär verdrängten Triebe unterscheiden. ]


③第三段階は、病理現象として最も重要であり、抑圧の失敗、侵入、抑圧されたものの回帰[Wiederkehr des Verdrängten]である [Als dritte, für die pathologischen Phänomene bedeutsamste Phase ist die des Mißlingens der Verdrängung, des Durchbruchs, der Wiederkehr des Verdrängten anzuführen. ]

この侵入とは固着点から始まる[Dieser Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her]。そしてその固着点へのリビドー的展開の退行[Regression der Libidoentwicklung]を意味する[und hat eine Regression der Libidoentwicklung bis zu dieser Stelle zum Inhalte. ](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー  )1911年、摘要)



したがってドゥルーズは『差異と反復』の第2章で、フロイトの「自動反復」という語を使いながら、反復の原理としての欲動の固着を叙述している。


固着と退行概念、それはトラウマと原光景を伴ったものだが、最初の要素である。自動反復=自動機械 [automatisme] という考え方は、固着された欲動の様相、いやむしろ固着と退行によって条件付けれた反復の様相を表現している。

Les concepts de fixation et de régression, et aussi de trauma, de scène originelle, expriment ce premier élément. […] : l'idée d'un « automatisme » exprime ici le mode de la pulsion fixée, ou plutôt de la répétition conditionnée par la fixation ou la régression.(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)


これはフロイトの『制止、症状、不安』に現れている。

欲動蠢動は「自動反復 Automatismus」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして抑圧において固着する契機は「無意識のエスの反復強迫」であり、これは通常の環境では、自我の自由に動く機能によって排除されていて意識されないだけである。

Triebregung  […] vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –[…] Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es, der normalerweise nur durch die frei bewegliche Funktion des Ichs aufgehoben wird. (フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)


欲動蠢動としての自動反復[Automatismus]とは固着を通した「無意識のエスの反復強迫」であり、これがフロイトの死の欲動である。


われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)




◼️ドゥルーズにおける「タナトスと永遠回帰とレミニサンス」の等置


ところでドゥルーズは同じ『差異と反復』の第2章で、事実上、タナトスと永遠回帰とレミニサンスを等置している。

エロスは共鳴によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼岸に、その輝かしい核を見出す)。プルーストの定式、《純粋状態にあるわずかな時間 》が示しているのは、まず純粋過去 、過去のそれ自体のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能の形式である。

Erôs est constitué par la résonance, mais se dépasse vers l'instinct de mort, constitué par l'amplitude d'un mouvement forcé (c'est l'instinct de mort qui trouvera son issue glorieuse dans l'oeuvre d'art, par-delà les expériences érotiques de la mémoire involontaire). La formule proustienne, « un peu de temps à l'état pur », désigne d'abord le passé pur, l'être en soi du passé, c'est-à-dire la synthèse érotique du temps, mais désigne plus profondément la forme pure et vide du temps, la synthèse ultime, celle de l'instinct de mort qui aboutit à l'éternité du retour dans le temps. (ドゥルーズ 『差異と反復』第2章、1968)


「強制された運動の増幅」とあるのは、反復強迫としてのタナトス(死の欲動ーードゥルーズにおいては死の本能)のことである。

強制された運動の機械(タナトス)[machines à movement forcé (Thanatos)](ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」第2 1970年)

強制された運動、それはタナトスもしくは反復強迫である[le mouvement forcé …, c'est Thanatos ou la « compulsion»](ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)


さて、ドゥルーズがタナトスあるいは永遠回帰に結びつけているプルーストの《純粋状態にあるわずかな時間 》とは、過去の復活にかかわり、レミニサンスである。

きらりとひらめく一瞬の持続ーー純粋状態にあるわずかな時間lの不動化[…d'immobiliser – la durée d'un éclair – ce qu'il n'appréhende jamais : un peu de temps à l'état pur.]

あのような幸福の身ぶるいでもって、皿にふれるスプーンと車輪をたたくハンマーとに同時に共通な音を私がきいたとき、またゲルマントの中庭の敷石とサン・マルコの洗礼堂との足場の不揃いに同時に共通なもの、その他に気づいたとき、私のなかにふたたび生まれた存在は、事物のエッセンスからしか自分の糧をとらず、事物のエッセンスのなかにしか、自分の本質、自分の悦楽を見出さないのである。 L'être qui était rené en moi quand, avec un tel frémissement de bonheur, j'avais entendu le bruit commun à la fois à la cuiller qui touche l'assiette et au marteau qui frappe sur la roue, à l'inégalité pour les pas des pavés de la cour Guermantes et du baptistère de Saint-Marc, cet être-là ne se nourrit que de l'essence des choses, en elles seulement il trouve sa subsistance, ses délices.(プルースト『見出された時』)


ここにはレミニサンスという語は出てこないが、しばらくして記憶の復活にかかわってレミニサンスという語が出現する。


記憶のそんな復活のことを考えたあとで、しばらくして、私はつぎのことを思いついた、――いくつかのあいまいな印象も、それはそれで、ときどき、そしてすでにコンブレーのゲルマントのほうで、あのレミニサンスréminiscencesというやりかたで、私の思想をさそいだしたことがあった、しかしそれらの印象は、昔のある感覚をかくしているのではなくて、じつは新しいある真実、たいせつなある映像をかくしていて、たとえば、われわれのもっとも美しい思想が、ついぞきいたことはなかったけれど、ふとよみがえってきて、よく耳を傾けてきこう、楽譜にしてみようとわれわれがつとめる歌のふしに似ていたかのように、あることを思いだそうと人が努力する、それと同種の努力で私もそうした新しい真実、たいせつな映像を発見しようとつとめていた、ということを。


Cependant, je m'avisai au bout d'un moment et après avoir pensé à ces résurrections de la mémoire que, d'une autre façon, des impressions obscures avaient quelquefois, et déjà à Combray, du côté de Guermantes, sollicité ma pensée, à la façon de ces réminiscences, mais qui cachaient non une sensation d'autrefois, mais une vérité nouvelle, une image précieuse que je cherchais à découvrir par des efforts du même genre que ceux qu'on fait pour se rappeler quelque chose, comme si nos plus belles idées étaient comme des airs de musique qui nous reviendraient sans que nous les eussions jamais entendus, et que nous nous efforcerions d'écouter, de transcrire. (プルースト『見出された時』)



ドゥルーズは後に『千のプラトー』で、無意志的回想のブラックホールと書いているが、これもまたレミニサンスのことである。


口の中にマドレーヌをころがす話者、その繰り返し、無意志的回想のブラックホール[Le narrateur mâchouille sa madeleine : redondance, trou noir du souvenir involontaire](ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』「零年ーー顔貌性」1980年)


ところでおそらくーーひとはプルーストのいう《幸福の身ぶるいでもって》のレミニサンスを死の欲動に結びつけるのは奇妙だと思うだろう。だがフロイトの定義における死の欲動は先に示したように何よりもまず「無意識のエスの反復強迫」なのである。



◼️フロイトラカンにおけるレミニサンスと死の欲動の等置


以下、いくらか廻り道を示して記す。まずドゥルーズが取り上げた「自動反復」をめぐるフロイト文を再掲する。

欲動蠢動は「自動反復=自動機械Automatismus」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして抑圧において固着する契機は「無意識のエスの反復強迫」である。Triebregung  […] vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –[…] Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es,(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)


この『制止、症状、不安』第10章の文は、同じ論の第3章の文とともに読むべきである。

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


固着を通した無意識のエスの反復強迫とは、エスに置き残された「異者としての身体」がもたらすものである。

固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)

異者身体は原無意識としてエスに置き残されたままである[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)


この異者、この異者としての身体はフロイトの定義においてトラウマであり、レミニサンスする。

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛み[psychischer Schmerz]を呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)


これはラカンも受け入れて次のように言っている。

私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。…これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる[Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration] (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要)


ラカンのトラウマとしての現実界はレミニサンスする異者であり、死の欲動なのである。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

死の欲動は現実界である[La pulsion de mort c'est le Réel](Lacan, S23, 16 Mars 1976)






◼️身体の出来事というトラウマへの固着と「反復強迫=死の欲動=レミニサンス=永遠回帰」


フロイトにおいてトラウマの定義は「自己身体の出来事」である。もちろんある臨界を超えた強度をもった出来事である、ーートラウマ的出来事の刻印の強度[Stärke des Eindruckes, den das traumatische Erlebnis]『快原理の彼岸』)。そしてこの身体の出来事としてのトラウマへの固着に伴う反復強迫が起こる。


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。〔・・・〕


このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]

この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen ](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


身体の出来事としてのトラウマへの固着は、喜ばしい身体の出来事への固着も当然ありうるし、それは反復強迫するだろう。


PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収)


さらに中井久夫はフロイトのレミニサンスする異者としての身体[Fremdkörper]ーーこの語は「異物」とも訳されてきたーーを使って次のようにも書いている。


外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


ここにプルーストのいう《幸福の身ぶるいでもって》レミニサンスする過去の記憶の回帰の鍵のひとつがある(もちろんプルーストにおいては喜ばしいトラウマの回帰だけではなく悲痛な過去の記憶のレミニサンスの記述もふんだんにある)。


そしてフロイトにおいてこの身体の出来事への固着による反復強迫が、エスに置き残された異者(異物)のレミニサンスとしての死の欲動なのである。

われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)


ところで、先ほどの『モーセ』には、身体の出来事としてのトラウマへの固着を「不変の個性刻印」 unwandelbare Charakterzüge としている。

この語は『快原理の彼岸』に永遠回帰の刻印として現れる。

同一の出来事の反復[Wiederholung der nämlichen Erlebnisse]の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 [Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)


以上、フロイトにおいての反復強迫としての「死の欲動とレミニサンスと永遠回帰」が結びついた筈である。


なお同一の出来事の反復[Wiederholung der nämlichen Erlebnisse]という同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]は、ニーチェの次の文にも現れている。

人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)


この「常に回帰する自己固有の出来事」のニーチェにとっての代表的なものは、彼が何度も繰り返して記述している月光を浴びた蜘蛛の永遠回帰である。


月光をあびてのろのろと匍っているこの蜘蛛、またこの月光そのもの、また門のほとりで永遠の事物についてささやきかわしているわたしとおまえーーこれらはみなすでに存在したことがあるのではないか。

diese langsame Spinne, die im Mondscheine kriecht, und dieser Mondschein selber, und ich und du im Thorwege, zusammen flüsternd, von ewigen Dingen flüsternd - müssen wir nicht Alle schon dagewesen sein?


そしてそれらはみな回帰するのではないか、われわれの前方にあるもう一つの道、この長いそら恐ろしい道をいつかまた歩くのではないかーーわれわれは永遠回帰する定めを負うているのではないか。 

- und wiederkommen und in jener anderen Gasse laufen, hinaus, vor uns, in dieser langen schaurigen Gasse - müssen wir nicht ewig wiederkommen? -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「 幻影と謎 Vom Gesicht und Räthsel」 第2節、1884年)




例えば他にも次のニーチェの異郷にあったおのれの回帰は、これまた永遠回帰だろう。

偶然の事柄がわたしに起こるという時は過ぎた。いまなおわたしに起こりうることは、すでにわたし自身の所有でなくて何であろう。

Die Zeit ist abgeflossen, wo mir noch Zufälle begegnen durften; und was _könnte_ jetzt noch zu mir fallen, was nicht schon mein Eigen wäre!  


つまりは、ただ帰ってくるだけなのだ、ついに家にもどってくるだけなのだ、ーーわたし自身の「おのれ」が。ながらく異郷にあって、あらゆる偶然事のなかにまぎれこみ、散乱していたわたし自身の「おのれ」が、家にもどってくるだけなのだ。

Es kehrt nur zurück, es kommt mir endlich heim - mein eigen Selbst, und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle.  ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第3部「さすらいびと」Der Wanderer


フロイトにおけるレミニサンス=死の欲動=永遠回帰する異者[Fremdkörper]の定義のひとつは、《内界にある自我の異郷部分 [ichfremde Stück der Innenwelt statt]》。(『制止、症状、不安』第3章)である。


この異者はプルーストにもいる、《異者はかつての少年の私だった[l'étranger c'était l'enfant que j'étais alors]》と。


私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。(…)最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての少年の私だった。

je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」Le temps retrouvé (Deuxième partie)  , p40)



なおフロイトにおいて異者は先ほど示したようにモノであり、既に最初期(1895年)に「モノなる同化不能の残滓[unassimilierbaren Reste]」(参照)という風に要約できる言い方をしている。この同化不能とは自我に同化不能(取り入れ不能)という意味であり、固着のトラウマである。


身体の出来事への固着としての現実界のトラウマは書かれることを止めない。

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (Lacan , S25, 10 Janvier 1978)


この記憶の刻印は傷つけることを止めない。


「記憶に残るものは灼きつけられたものである。傷つけることを止めないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。»Man brennt etwas ein, damit es im Gedächtnis bleibt: nur was nicht aufhört, wehzutun, bleibt im Gedächtnis« - das ist ein Hauptsatz aus der allerältesten (leider auch allerlängsten) Psychologie auf Erden.(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文第3節、1887年)


すなわち、《われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける。notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir. 》(プルースト「逃げ去る女」)


これが反復強迫としての死の欲動、レミニサンス、永遠回帰の核心である。