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2022年10月5日水曜日

血まみれになって道に横たわっている女


ゴダールは、1952年のクリスマスイヴに新しい友人を作った。母の愛人Jean-Pierre Laubscherである。彼は1927年生まれで、ゴダールの母より18才若く、ゴダールより3才年上だった。(Richard Brody、Everything Is Cinema: The Working Life of Jean-Luc Godard、2008)


ゴダールの母の写真をネット上で検索しても行き当たらないのだが、なぜかね?


……………


ゴダールの母オディールは、1954年4月25日、45才にて、ローザンヌ近郊でモーターバイク事故で死んでいる。ゴダールは24才だった。


彼女の名は正確には、オディール=マリー・ゴダール Odile Marie Godardといい、1909年生まれである。父ジュリアン・モノー Julien Monod はパリ=オランダ銀行の設立者で、レマン湖のフランス側に広大な地所を所有していた(ジュリアン・モノーはヴァレリーの日記にも親しい訪問相手として出現する)。


娘オディールは、10才年上の開業医ポール・ゴダール(1899年生)と 19才のときに結婚している(1928年)。ふたりは4人の子供をもうけた。長女 Rachel(1930年1月6日生)、長男ジャン=リュック(1930年12月3日生)、次男 Claude(1933年生)、次女 Véronique(1937年生)である。


ゴダールの両親は離婚の年ははっきりしない。いくつかのネット上の情報では1948年とされることが多い。だがごく最近ゴダールとのインタヴューをしつつ伝記を記したColin MacCabeは、1952年に離婚としている("Godard: A Portrait of the Artist at Seventy" 、2016)。


ポール・ゴダールと長男ジャン=リュックは、しばしば不和になった。とくに家族伝説は噂で名高い食事の出来事を詳述している。ゴダール医師は完全に自制心を失い、マッシュドポテトのボウルを息子の頭めがけて投げつけたのである。

このエディプス的ダイナミズムには、ゴダールの両親の崩壊しつつある結婚が影響している。とはいえ敬虔なプロテスタント家族において、どんな離婚の話もまったく許されない。したがって、1952年11月に最終的な離縁に至るまでの、結婚破綻の明瞭なクロノロジーを提出するのは困難である。


子供たちはそれぞれ、両親分離の異なった記憶をもっている。次男 Claude にとっては、母がジュネーブに移った1949年である。次女 Véronique にとってはスキー休みから戻ってきた1951年である。彼女の姉 Rachel が母が発ったと告げたのである。ジャン=ルックはくり返し私に語った、彼にとっては15才のときそれが来たと。1945年、戦争とともに両親分裂があったと。


確かなのは、オディール・ゴダールはスイス移住に決して甘んじなかったことである。一方で、ポール・ゴダールはパリの社交界に引き摺りまわされることからの脱出をとても喜んだ(娘Véroniqueの推測では)。しかしオディール・ゴダールは、いくつかの社交サロンをひどく懐かしがった。そして自分と子供たちが、可能なかぎり多くの時をパリで過ごせるように取り図らった。


1933年後半の記録がある。スイスでのオディールの胎内には、次男 Claude がいた時である。当時の彼女はまだパリで勉強を続けようと試みていた。オディールは、自らと子供たちを社会文化活動の多様性に携わるようにする、献身的かつ誠実な母であったが、それと同時に瞭然とした情熱があった。田舎住いの主婦(ヴォー州の家政婦 Vaudois matron)の生活は彼女の趣味ではないのはほとんど疑いようがなかった。(Colin MacCabe,"Godard: A Portrait of the Artist at Seventy" , 2016)






医者になりたいとかつて望んだ冒険好きな若い女は、中年になっても相変わらず冒険好きのままだった。当時の若者たちのあいだで、新しいイタリア製スクーター「ヴェスパ」は、大ブームだった。オディール・モノーは、父ジュリアン・モノーにヴェスパを買ってくれないかと頼んだ。1954年4月、午後9時半の宵闇、オディールのヴェスパはローザンヌの路上から落ちた。彼女は頭蓋骨骨折でほとんど即死だった。


ゴダールはジュネーブから病院に駆けつけた。しかし彼は葬式には参列しなかった。それは異様な堪え難い事態による。ポール・ゴダールは子供たちを伴ってモノー祖父に会いに駅に向かった。だがセシル・モノー Cécile Monod(ゴダールの祖母)にこう告げられた、「Monsieur, on ne veut pas vous voir ici (私たちはここであなた方にお会いしたくありません)」。屍体はアンシイAnthy(レマン湖畔のアンティ=シュル=レマン)に埋められ、墓碑にはオディール・ モノー Odile Monod と刻まれている。(Colin MacCabe, "Godard: A Portrait of the Artist at Seventy" , 2016)



ゴダールは、血まみれになって道に横たわっている女のイマージュを反復した映像作家である。『(複数の)映画史』『フォーエヴァー・モーツアルト』『アワーミュージック Notre musique』にはサラエヴォでのルック・ドラエ Luc Delahayeの作品が繰り返して現れる。











ゴダール自身も41才のとき、モーターバイク事故にあっている。


1971年6月、ゴダールは、彼の編集者 Christine Marsollier が運転するモーターバイクの事故で重傷を負った。…ゴダールは2年半以上ののあいだ病院を出たり入ったりした。そのあいだ、当時の同志であったアンヌ=マリー・ ミエヴィル Anne-Marie Miéville に看護されて回復に向かった。(Wheeler W. Dixon、The Films of Jean-Luc Godard、1997)