◼️剰余享楽の基本
仏語の「剰余享楽 le plus-de-jouir」は、「もはやどんな享楽もない」と「もっと享楽を !」[both as "not enjoying any more" and as "more of the enjoyment." ]の両方の意味をもっている。(PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains , 2009) |
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剰余享楽は言説の効果の下での享楽の廃棄の機能である[Le plus-de-jouir est fonction de la renonciation à la jouissance sous l'effet du discours. ](Lacan, S16, 13 Novembre 1968) |
剰余享楽は既に享楽の亡霊である。シニフィアンの形式の上の享楽の模造化である。c’est un plus-de-jouir qui est déjà un dégradé de la jouissance, un modelage de la jouissance sur le modèle du signifiant. (J.-A. MILLER「ヘイビアス・コーパス(Habeas corpus)」2016) |
◼️享楽の穴と剰余享楽の穴埋め |
ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。対象aは享楽の穴と剰余享楽の穴埋めなのである[petit a est …le trou (de jouissance) et le bouchon (du plus-de-jouir)]。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要) |
◼️享楽の昇華としての剰余享楽とコカコーラ効果(飲めば喉が乾く) |
間違いなくラカン的な意味での昇華の対象は、厳密に剰余享楽の価値である[au sens proprement lacanien, des objets de la sublimation.… : ce qui est exactement la valeur du terme de plus-de-jouir ](J.-A. Miller, L'Autre sans Autre May 2013) |
昇華の対象は対象aのリストに含まれる。実際、ラカンが1966年にボルチモアにいたとき、エンジョイ・コカコーラの広告を窓から見ている姿があり、ラカンは享楽をエンジョイと翻訳することは不可能だと言った。まさに私の経験によれば、コカコーラは、飲むと喉が渇くという性質を持っている(笑)。そしてそこに、剰余享楽の本質的な性質、つまり、満足を与えると同時に不満にさせること、享楽の欠如を深めることが正確に把握されている。コカコーラは、厳密に産業の生産物であり、ラカンにとっての剰余享楽の概念に相当する。 les objets de la sublimation sont inclus dans la liste des objets petit a.(…) Coca-Cola revient puisque quand Lacan était à Baltimore, en 1966, c'est là, voyant de sa fenêtre la publicité Enjoy Coca-Cola, il avait dit qu'on ne pouvait pas du tout traduire comme ça jouissance, précisément Coca-Cola, selon mon expérience, a cette propriété que en boire vous assoiffe (rires) et là nous saisissons précisément la propriété essentielle de ce plus-de-jouir qui est de laisser, de creuser en même temps qu'il donne une satisfaction, de creuser le manque à jouir. Or Coca-Cola, précisément, c'est un produit de l'industrie et la notion de plus-de-jouir chez Lacan, (J.-A. MILLER, L'expérience du réel dans la cure analytique - 31/03/99) |
◼️剰余享楽=マルクスの剰余価値 |
装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ]〔・・・〕 剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン, Radiophonie, AE434, 1970) |
◼️剰余享楽という享楽欠如の拡大生産 |
永遠にマルクスに声に耳を傾けるこの貝殻[Lacoquille à entendre à jamais l'écoute de Marx]……この剰余価値は経済が自らの原理を為す欲望の原因である。享楽欠如[manque-à-jouir」 の拡張生産の、飽くことを知らない原理である[la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.](Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年) |
◼️資本の言説における剰余価値の「飲めば飲むほど乾く」コカコーラ効果 |
資本の言説の鍵の発見は、次の認知を意味する。すなわち剰余享楽の必然性が、《穴埋めされるべき穴 trou à combler》(Lacan,Radiophonie,1970)としての享楽の地位に基礎づけられていること。 マルクスはこの穴を剰余価値にて塞ぐ。この理由でラカンは、剰余価値 Mehrwert は、マルクス的快 Marxlust ・マルクスの剰余享楽 plus-de-jouir だと言う。剰余価値は欲望の原因である。資本主義経済は、剰余価値をその原理、すなわち拡張的生産の原理とする。 |
さてもし、資本主義的生産--M-C-M' (貨幣-商品-貨幣+剰余価値)--が消費が増加していくことを意味するなら、生産が実際に、享楽を生む消費に到ったなら、この生産は突然中止されるだろう。その時、消費は休止され、生産は縮減し、この循環は終結する。これが事実でないのは、この経済は、享楽欠如[manque-à-jouir] を生産するからである。〔・・・〕 消費すればするほど、享楽と消費とのあいだの裂目は拡大する。従って、剰余享楽の配分に伴う闘争がある。それは《単なる被搾取者たちを、原則的搾取の上でライバルとして振舞うように誘い込む。彼らの享楽欠如の渇望[la soif du manque-à-jouir への明らかな参画を覆い隠すために。[induit seulement les exploités à rivaliser sur l'exploitation de principe, pour en abriter leur participation patente à la soif du manque-à-jouir] 》(LACAN, Radiophonie) |
新古典主義経済の理論家の一人、パレートは絶妙な表現を作り出した、議論の余地のない観察の下に、グラスの水の「オフェリミテ ophelimite) 」ーー水を飲む者は、最初のグラスの水よりも三杯目の水に、より少ない快を覚えるーーという語を。ここからパレートは、ひとつの法則を演繹する。水の価値は、その消費に比例して減少すると。しかしながら反対の法則が、資本主義経済を支配している。渇きなく飲むことの彼岸、この法則は次のように言いうる、《飲めば飲むほど渇く》と。(ピエール・ブルノPierre Bruno, capitalist exemption, 2016) |
上でピエール・ブルノは資本の言説の消費者の姿ーー企業家も含まれるーーの基本を巧みに叙述しているが、資本の言説の時代とはわかりやすく言えば市場原理主義の時代のことであり、われわれはまさにその時代を生きている。例えば男女の愛の関係でもコカコーラ効果が如実に現れているのが、この21世紀である。
資本の言説はカップルを創造しない。ラカンはとても確信的にこれを示そうとした、〔・・・〕 資本の言説によって創造される唯一の結びつきは、社会的な結びつきでは殆どない。…英語圏のひとびとが使用する "an affair" という表現は、実に症候的である。affair とは、何よりも先ず、ビジネスのことである(すなわちラブアフェアーとは、愛のビジネスである)。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011) |
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この「愛のビジネス」を婚活を例にとって図式化すれば次の通り。
この図式は他にも種々の形で適用できる。例えば新製品が出るたびにiPhoneを追い求める消費者も同じコカコーラ効果の構造をもっており、資本の言説の奴隷である。
私自身、例えばYouTube市場で音楽を次から次へとと追い求めてしまうとき、同じ穴の狢に陥ってしまっているという感を抱かざるを得ないときがある。さらにはこの蚊居肢ブログ記事自体も。