年ごとに知己が世を去り、身辺とみに蕭条の気が濃くなる。親しんだ本の著者たちも新聞に訃報が載る。いつまでも傍にいてくれるのは古典である。老年は古人に再び出会う季節である。(中井久夫「最晩年の定家」2005年『樹をみつめて』所収) |
中井久夫がこう言ったのは、1934年生まれだから、71歳だ。 高橋悠治が「凍った影だけ 鵞鳥はいない」(2001)で、 《ちかづくにせよ とおざかるにせよ/航路の支えだった友人たちはもういない》と言ったのは、1938年生まれだから、63歳だな。 |
どこから来たかではない
そこには二度と還れないから
どこへ行くかでもない
なにかをめざすことはもうないから
いまいる場所が問題だ
それがやっとわかってきた
二○○一年二月
ヤニス・クセナキスが死んだ
かすかにのこっていた
ヨーロッパとの縁も これで切れてしまった
一九六○年には勅使河原宏のはじめた草月アートセンターがあった
そこには武満徹や秋山邦晴がいた
クセナキスと
またケージともそこではじめて会った
いまは だれも生きていない
柴田南雄も死んだ
音楽をつくるときに意識していた人たち
ちかづくにせよ とおざかるにせよ
航路の支えだった友人たちはもういない
人はみなそれぞれのあり方で「航路の支え」だった友人や著者があるんだろうけど、ボクの場合、作家に限って言えば、1930年代生まれの人が多いね。航路の支えなどと大仰なことは言わないまでも、何事かが起こったとき、この人はどんな反応をしているのだろう、と探り求めようとした人たちは。
そのなかでは柄谷は一番若いんだよな
柄谷行人 |
1941 |
蓮實重彦 |
1936 |
中井久夫 |
1934 - 2022 |
古井由吉 |
1937 - 2020 |
大江健三郎 |
1935 |
谷川俊太郎 |
1931 |
高橋悠治 |
1938 |
こういったメンツだったね、航路の支えは。とおざかった人もいるけどさ。