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2023年2月14日火曜日

こう書いてあるから多分こうではないだろう

 

惚れているときに、相手の言葉を額面通りに受け取ることは、よほどのウブ以外はない筈だ。


『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。

Le leitmotiv du Temps retrouvé, c'est le mot forcer : des impressions qui nous forcent à regarder, des rencontres qui nous forcent à interpréter, des expressions qui nous forcent à penser. 〔・・・〕


われわれは、無理に強制されて、時間の中でのみ真理を探求する。真理の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。Nous ne cherchons la vérité que dans le temps, contraints et forcés. Le chercheur de vérité, c'est le jaloux qui surprend un signe mensonger sur le visage de l'aimé. 


それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。C'est l'homme sensible, en tant qu'il rencontre la violence d'une impression. 


それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。C'est le lecteur, c'est l'auditeur, en tant que l'œuvre d'art émet des signes qui le forcera peut.être à créer, comme l'appel du génie à d'autres génies.

恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりの友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。Les communications de l'amitié bavarde ne sont rien, face aux interprétations silencieuses d'un amant. 


哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。La philosophie, avec toute sa méthode et sa bonne volonté, n'est rien face aux pressions secrètes de l'œuvre d'art.


思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともに、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真理がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。Toujours la création, comme la genèse de l'acte de penser, part des signes. L'œuvre d'art naît des signes autant qu'elle les fait naître ; le créateur est comme le jaloux, divin interprète qui surveille les signes auxquels la vérité se trahit. 

(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」第2版、1970年)



このプルーストの教えーードゥルーズの『プルーストとシーニュ』は、最終的に《未知のシーニュ[signes inconnus](私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状のシーニュ[signes en relief])》(「見出された時」[参照])に収斂するーー、これは、精神医学も一緒だよ



精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。(中井久夫『治療文化論』1990年)

精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。

そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは? (中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)




中井久夫の「こう書いてあるから多分こうではないだろう」は、ラカンの言い方なら次のとおり。



私は私の身体で話してる。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言う[Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais](ラカン, S20,  15 Mai 1973)

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である[Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient](Lacan, S20, 15 mai 1973)



フロイトならこうだ。


自我は自分の家の主人ではない [das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus](フロイト『精神分析入門』第18講、1917年)

自我はエスの組織化された部分に過ぎない[das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es. ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)

エスの欲求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)



このエスの欲動の身体の別名は、異者としての身体、《我々にとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger]》(Lacan, S23, 11 Mai 1976)


異者としての身体は本来の無意識としてエスに置き残されたままである[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)



書物を読むときも一緒だよ、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」マインドは欠かせないね、ーー《書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか[schreibt man nicht gerade Buecher, um zu verbergen, was man bei sich birgt? ]》(ニーチェ『善悪の彼岸』289番、1886年)