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2023年4月5日水曜日

あなたならどう考えますか


 中井久夫と大江健三郎のときは大した動揺はなかった、いわゆる大往生だと。だが坂本龍一の死は、私より6歳上だけの同時代を生きた人ということもあり(今見ると誕生日が同じなのに気づいた、これは阪神大震災のとき知ったが失念していた)、ある促しに襲われる。雑誌や映画などでの彼の姿を彷彿したりーー彼の音楽を聴く習慣があったわけでもないにも拘らずーー、『批評空間』での柄谷行人と浅田彰との鼎談などでの発言を思い起こしたり、坂本龍一の武満徹批判はあれは何だったかとかも探り直したりして、71歳という早過ぎる死について思いに耽ってしまう(もっとも武満徹は同じ癌で66歳で死んでいるのに早死とは感じなかったのはなぜなんだろう)。あるいは最期はどんな死に方だったのか、誰が看取ったのか等々。こういったとき「あなたならどう考えますか」と問いたくなるのは、私の場合、中井久夫なのである、中井久夫がヴァレリーだったように。


フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、私の人生の中でいちばん付き合いの長い人である。もちろん、一八七一年生まれの彼は一九四五年七月二十日に胃癌で世を去っており、一八七五年生まれの祖父の命日は一九四五年七月二十二日で、二日の違いである。私にとって、ヴァレリーは時々、祖父のような人になり、祖父に尋ねるように「ヴァレリー先生、あなたならここはどう考えますか」と私の中のヴァレリーに問うことがあった。医師となってからは遠ざかっていたが、君野隆久氏という方が、私の『若きパルク/魅惑』についての長文の対話体書評(『ことばで織られた都市』三元社  2008 年、プレオリジナルは 1997年)において、私の精神医学は私によるヴァレリー詩の訳と同じ方法で作られていると指摘し、精神医学の著作と訳詩やエッセイとは一つながりであるという意味のことを言っておられる。当たっているかもしれない。ヴァレリーは私の十六歳、精神医学は三十二歳からのお付き合いで、ヴァレリーのほうが一六年早い。ただ、同じヴァレリーでもラカンへの影響とは大いに違っていると思う。 ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にあるように、それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である。 (中井久夫「ヴァレリーと私」2008年『日時計の影』所収)



そう、中井久夫には「私の死生観」という文があった。『クリニシアン』という雑誌の依頼原稿として書かれたもので(1994年だから還暦時)、今の私の気分にピッタリの文である。ここではコメント抜きで全文掲げる。


◼️「私の死生観――"私の消滅"を様々にイメージ」

死生観というほどのものではないが、できるだけ率直に書く。


「人々みな草のごとく」


「私もいつか死ぬのだ」という実感がすとんと肚に落ちたのは、昭和一二年の夏、中国との戦争が始まったころであった。そして、いつのころか、まだ小学生のうちに、どうして私が今ここに生きている何某という人間であって他ではないのかという、人に尋ねようもない疑問が萌した。


私は結局、他の誰ともさほど変わらない「大勢のうちの一人」である「自分」と、意識、知覚、思考、感覚を私のものとしているかけがえのない一個の「私」と、それぞれ認めつつ、統一できないままである。しかしこの統一は、人間の条件を越えているとも、ときに思う。


「ワン・オブ・ゼム」であり、生理・心理・社会的存在である「自分」としては、私は、社会、職場、家庭、知己との関係の中で私なりに生きてきた。私は対人関係に不器用であり、多くの人に迷惑を掛けたし、また、何度かあそこで死んでいても不思議でないという箇所があったが、とにかくここまで生かしていただいた。振り返ると実にきわどい人生であった。 知りし人が一人一人世を去っていく今、私は私に、遠くないであろう「自分」の死を受け入れよと命じる。この点では「人々みな草のごとく」である。


そのときどきで満たされた「自己実現」


昨年の三月ごろであったか、私はふっと定年までの年数を数え、もうお付き合い的なことはいいではないかという気になった。 「面白くない論文はもう読まない。疲れる遠出はしない。学会もなるべく失礼する。私を頼ってくれる患者と若い人への義務を果たすだけにしよう。残された時間を考えれば、今の三時間は、若い時の三時間ではない」と思って非常に楽になった。


幸い、私はさほど大きな欲望を授からなかった。「自己実現」ということが人生の目標のようにいわれるが、私はほとんどそれを考えたことがない。私の「自己」はそれなりにいつも実現していたと、私は思ってきた。


私が恵まれているからだといえば、反論できない。確かに「今は死ぬに死ねない」という思いの年月もあった。しかし、私は底辺に近い生活にも、スッと入ってしまいさえすれば何とか生きていけ、そこに生きる悦びもあるということを、戦後の窮乏の中で一応経験している。他方、もし経済的に恵まれていたならば、私はペルシャ文学などのあまり人のやらないものをやって世を送るだろうに、と大学進学のときに思った。ある外国の詩人の研究家になろうかと思ったこともある。この二つの思いは時々戻ってきた。しかし五十歳を過ぎてから、私はかなり珍しい文学の翻訳と注釈を出し、また、例の詩人の代表作を翻訳してしまった。さすがにこれが出版されたとき、私の人生はこれ一つでもよかったくらいだ、後はもう何でもいいという気に一時はとらわれた。


"私の消滅"は自然に受け入れられるだろうか


しかしそういうことも含めて、 医学生なり、若い四等研究者なり、精神科医なり、大学教師なりをやっている「自分」の内側に、それを微苦笑しながら眺めている「私」、つまり私を見ている一点を私の中に感じる。これを「ユニーク (唯一無二)な私」、「純粋自己」とすれば、これは否定し得ないものだが、はたして堅固な土台の上にあるのか。それは一種の「虚点」ではないかとも思う。


そのうえ、それは酩酊、睡眠、中毒などによって怪しくなる。それが死によって消滅することは、自己の消滅という事態を理解できない限りにおいて理不尽ではあるが、しかし不思議ではないと思う。


私は、強いていえば、理解し得た限りでの大乗仏教の哲学、竜樹あるいは世親の「空」論に親近感を抱いてきた。しかしこれは哲学としてである。私はどの宗教にも帰依していない。成人してからも仏教とキリスト教から多くを得た。その一部は私のモラル・バックボーンになっていると思う。


しかし、私の基本を遡ってたどれば、祖父の痩せ我慢的武士道と、老病死への恐怖からの祖母の仏信心と、母の聖書物語とに至る。


私の消滅は、私には常に越え難い謎である。私が死ねば、家族や国家はもちろん、銀河系とさえ無関係となるというのは奇妙であり、私の死後、数百万年にも私が決して見ることはない世界が存在していることも奇妙である。しかし、私はこの不条理をいつのまにか受け入れている自分を感じている。


死への過程をイメージできる自分


死への過程は、私には想像し得るものである。学生時代、私は病理学の教科書を読みながら、このどれで死ぬのかと思った。私はその後、私の力及ばずしての死も含めて多くの死に立ち会った。彼らのことを思うとき、私は「ぜいたくはいえない」と思う。私はだらしなくうめき、苦しむかもしれない。詩人リルケが、死をうたった多くの詩を書いた後、自らの死病ーー白血病であったーーの中で、「これは自分の考えていたのと全然違う、全く別の苦痛だ」と書き残したことを思い合わせる。


しかし私は、睡眠中の死や一挙の死を望んでいないようである。 「自分は死ぬのだ」と納得して死にたいようである。「せっかく死ぬのだから死にゆく過程を体験したい」とでも考えているのだろうか。また私にとって、生きているとは意識があるということである。 植物状態を長く続けるのは全くゾッとしないようである。 高度の痴呆で永らえることも望んでいないようである。これは自分の考えを推量していっているので、自分ながら「ようである」というのである。私がわずかしか残さなかった家計を、家族がそのような私のために失うのを私は望まない。「尊厳死」という発想と少し違うかもしれない。死の過程をーーそれもあまり長くない間ーー体験したいというのは、私の一種の好奇心ともいえよう。ただ、私はマゾヒストではないから、苦痛の軽減は望み、余裕のある意識で死の過程を味わいたい。また、長い痴呆あるいは植物状態を望まない主な理由は、経済的に家族を破綻させるからで、私はこれらの生命の価値を否定しているわけではない。また、所詮私の自由裁量の範囲を越えた問題である。私の中で育っているに違いない死の種子の、どれが一位を占めるかは、キリスト者ならば「御心のままに」というであろう。


おわりに


しかし私は、ときに愛する人の死のほうが、己れの死よりもつらく悲しいのではないかと思う。そのように悲しい人のことを「愛する人」というのだろうか。

(中井久夫「私の死生観――"私の消滅"を様々にイメージ」1994年『精神科医がものを書くとき』所収)




なお、最後の《私は、ときに愛する人の死のほうが、己れの死よりもつらく悲しいのではないかと思う。そのように悲しい人のことを「愛する人」というのだろうか》は、1999年にもサリヴァンを引用しつつ同様なことが書かれている。


人は、なぜ死について語る時、愛についても語らないのであろうか。愛と性とを結び付けすぎているからではないか。愛は必ずしも性を前提としない。性行為が必ずしも(いちおう)前提とせずに成り立つのと同じである。私はサリヴァンの思春期直前の愛の定義を思い出す。それは「その人の満足と安全とを自分と同等以上に置く時、愛があり、そうでないならばない」というものである。平時にはいささかロマンチックに響く定義である。私も「いざという時、その用意があるかもしれない」ぐらいにゆるめたい。しかし、いずれにせよ、死別の時にはこれは切実な実態である。死別のつらさは、たとえ一しずくでもこの定義の愛であってのことである(ここには性の出番がないことはいうまでもあるまい)。(中井久夫「「「祈り」を込めない処方は効かない(?) 」初出1999年『時のしずく』所収)