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2023年5月11日木曜日

哲学について(フロイトとウィトゲンシュタイン)

 

私の哲学(形而上学)に対する態度はあなたもご承知のように思われる。私の素地の他の欠陥であれば、きっと私は悩まされ、謙虚にさせられたことでしょうが、形而上学に関してはそうではありません。 私は形而上学に対する器官(「能力」)を持っていないばかりでなく形而上学に対する何の敬意も持ってはいません [ich habe nicht nur kein Organ (›Vermögen‹) für sie, sondern auch keinen Respekt vor ihr.。密かに私はーー大声で言うわけにはゆかないでしょうがーー形而上学というものはいつか「有害なもの」、思考の誤用、宗教的世界観の時代の「遺物」と判決を下されるであろうと信じています[daß die Metaphysik einmal als ›a nuisance‹, als Mißbrauch des Denkens, als ›survival‹ aus der Periode der religiösen Weltanschauung verurteilt werden wird]。こういう考え方がいかに私をドイツ文化圏に縁遠いものとしているかは、よく心得ています。〔・・・〕いずれにしても、哲学の彼岸によりも事実の此岸に道を見出すことのほうがおそらく簡単でありましょう。(フロイト書簡、ヴェルナー・アヒェリスWerner Achelis宛、1927年1月30日付)


フロイトはここで哲学というより形而上学批判をしているーー《形而上学というものはいつか「有害なもの」、思考の誤用、宗教的世界観の時代の「遺物」と判決を下されるであろう》ーーのだが、ウィトゲンシュタインの哲学の捉え方であるなら、フロイトは実に「哲学的な」人物であるだろう。



「哲学を勉強したことがないので、あれやこれやの判断を下すことができません」という人が、ときどきいる。こういうナンセンスをきかされると、いらいらする。「哲学がある種の学問である」などと申し立てられているからだ。おまけに哲学が、医学かなんかのように思われているのである。だが、次のようなことは言える。哲学的な研究をしたことのない人ーーたとえば、たいていの数学者がそうだがーーは、その種の研究や調査のための、適切な視覚器官が備わっていないのである。それは、森で、花やイチゴや薬草を探しなれていない人が、何一つとして発見できないのにかなり似ている。かれの目は、そういうものに対して敏感ではないし、また、とくにどのあたりで大きな注意を払わなければならないか、といったこともわからないからである。同じような具合に、哲学の訓練を受けたことのない人は、草むらの下に難問が隠されているのに、その場をどんどん通り過ぎてしまう。

一方、哲学の訓練を受けた人なら、まだ姿は発見していないのだけれども、その場に立ちどまって、「ここには難問があるぞ」と感じ取る。だが、そのようによく気がつく熟達者ですら、じっさいに発見するまでには、ずいぶん長時間、探しまわらなければならない。とはいえ、それは驚くにはあたらない。何かがうまく隠されている場合、それを発見するのは難しいものなのである。

Leute sagen gelegentlich, sie könnten das und das nicht beurteilen, sie hätten nicht Philosophie gelernt. Das ist ein irritierender Unsinn; denn es wird vorgegeben, die Philosophie sei irgendeine Wissenschaft. Und man redet von ihr etwa wie von der Medizin. – Das aber kann man sagen, daß Leute, die nie eine Untersuchung philosophischer Art angestellt haben, wie die meisten Mathematiker z. B., nicht mit den richtigen Sehwerkzeugen für derlei Untersuchungen oder Prüfungen ausgerüstet sind. Beinahe, wie Einer, der nicht gewohnt ist, im Wald nach Blumen, Kräutern oder Beeren zu suchen, keine findet, weil sein Auge für sie nicht geschärft ist, und er nicht weiß, wo insbesondere man nach ihnen ausschauen muß. So geht der in der Philosophie Ungeübte an allen Stellen vorbei, wo Schwierigkeiten unter dem Gras verborgen liegen, während der Geübte dort stehenbleibt und fühlt, hier sei eine Schwierigkeit, obgleich er sie noch nicht sieht. – Und kein Wunder, wenn man weiß, wie lange auch der Geübte, der wohl merkt, hier liege eine Schwierigkeit, suchen muß, um sie zu finden. Wenn etwas gut versteckt ist, ist es schwer zu finden. (ウィトゲンシュタイン『反哲学的断章』Wittgenstein, Vermischte Bemerkungen, S. 61)




フロイト観点からは、ニーチェはいっそうウィトゲンシュタイン曰くの哲学的人物だった。


ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden.(フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung、1908年 )

ニーチェは、精神分析が苦労の末に辿り着いた結論に驚くほど似た予見や洞察をしばしば語っている。Nietzsche, (…)  dessen Ahnungen und Einsichten sich oft in der erstaunlichsten Weise mit den mühsamen Ergebnissen der Psychoanalyse decken (フロイト『自己を語る Selbstdarstellung』1925年)




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ウィトゲンシュタインは《哲学的な研究をしたことのない人は、その種の研究や調査のための、適切な視覚器官が備わっていないのである。それは、森で、花やイチゴや薬草を探しなれていない人が、何一つとして発見できないのにかなり似ている》としているが、ここで中井久夫=ギンズブルグの徴候的知をめぐる記述をも掲げておこう。


…カルロ・ギンズブルグは、些細な足跡や草の倒れた形から獣が通った跡を推理する狩人の「徴候的知」を、歴史家、医師、推理作家などの方法の先駆として、この「知」による科学に「演繹」や 「帰納」による科学と同等の「知」としての位置を与えることを主張している。 中村雄二郎氏に始まる「臨床的知」の概念は、 つまるところギンズブルグの「徴候的知」であるまいか。この「知」は、意識的な「方法論 methodology ではなく、 十八世紀の古くからいわれながらあまり取り上げられていない 「セレンディピティ」による知であると私は思う。


ちなみに、「セレンディピティ」とは、隠れたものを発見するのが上手なセイロンの王子に始まる言葉である。「セレンディピティ」を体験したければ、練達の植物学者と山道を行くとよい。私が茫漠と花の野を見ている間に、ひょいひょいと指さしては「ここにもありました」 「ほらここにも」と珍種、新種をみつけるのに接するだろう。反対に、「方法論」の立場からすれば、おそらくある平方メートルを区切って、その中の草を枚挙してゆくだろう。 それは、現に農林生物学で、 ある土地の既知の) 植物分布や生産量を計るのに用いる方法であるが、採集家の用いないところである。


一般に、徴候優位に体験線が切り替わると、もっとも微かな変化、もっとも些細な新奇さがもっとも大きい意味を持つように「私/世界」が変化する。(中井久夫「「世界における索引と徴候」について」初出1990年『徴候・記憶・外傷』所収)



ちなみに中井久夫による分裂病親和型者の繰り返される定義は、《もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する》である。


ひょっとして、ニーチェもウィトゲンシュタインも、哲学者というより分裂病親和タイプの「セレンディピティ」の人物だという言い方ができるかもしれない。


軽やかな音もなく走りすぎていくものたち、 わたしが神々しいトカゲと名づけている瞬間[ohne Geräusch vorbeihuschen, Augenblicke, die ich göttliche Eidechsen nenne, ein wenig fest zu machen ](ニーチェ『この人を見よ』1888年)

まさに、ごくわすかなこと、こくかすかなこと、ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ[Eidechse Rascheln]、一つの息、一つの疾過、一つのまばたき──まさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。静かに。──

Das wenigste gerade, das Leiseste, Leichteste, einer Eidechse Rascheln, ein Hauch, ein Husch, ein Augen-Blick – wenig macht die Art des besten Glücks. Still!ー(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「正午 Mittags」1885年)