柄谷はカントの「仮象、形式、物自体」を、ラカンの「想像界、象徴界、現実界」と相同的なものとして捉えた。
フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。(柄谷行人『トランスクリティーク』P59、2001年) |
カントが主観の能動性として考えていたのは、実際には言語の問題である。彼が感性の形式や悟性のカテゴリーによって現象が構成されるといったのは、言語によって構成されるというのと同じことである。実際、それらは新カント派のカッシーラーによって「象徴形式」といいかえられている。(『トランスクリティーク』P101) |
このカッシラーの捉えた方(形式=言語)を含めると、カントの三界は実際、いっそうラカン的である。
象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
想像界は影と反映の形象に過ぎない[imaginaires, …n'y font figure que d'ombres et de reflets. ](Lacan, E 11, 1956) |
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
象徴界の別名は大他者あり欲望、モノは享楽でありエス。 |
欲望は大他者に由来する、そして享楽はモノの側にある[le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose](Lacan, DU « Trieb» DE FREUD, E853, 1964年) |
大他者とは父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98) |
フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009) |
そして想像界の中心にあるのは自我、愛(ナルシシズム)である。 |
想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes… et structuré :… cette fonction symbolique](Lacan, S2, 29 Juin 1955) |
ーー《自我は想像界の効果である。ナルシシズムは想像的自我の享楽である。Le moi, c'est un effet imaginaire. Le narcissisme, c'est la jouissance de cet ego imaginaire(J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 10 juin 2009) |
愛はイマージュである。それは、あなたの相手があなたに着せる、そしてあなたを装う自己イマージュであり、またそれがはぎ取られるときあなたを見捨てる自己イマージュである[l'amour ; soit de cette image, image de soi dont l'autre vous revêt et qui vous habille, et qui vous laisse quand vous en êtes dérobée],(Lacan, AE193, 1965) |
ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである[qu'il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,… l'amour c'est le narcissisme ](Lacan, S15, 10 Janvier 1968) |
つまりはこうなる。
傑出した思想家の発言に矛盾があると感じることがある。だがこの三界で捉えるとそれは(多くの場合)解決する。
例えばニーチェは音楽についてこう言った。
①風笛の音色 |
幸福に必要なものはなんとわずかであることか! 一つの風笛の音色。――音楽がなければ人生は一つの錯誤であろう。Wie wenig gehört zum Glücke! Der Ton eines Dudelsacks. - Ohne Musik wäre das Leben ein Irrtum. Der Deutsche denkt sich selbst Gott liedersingend.(ニーチェ『偶像の黄昏』「箴言と矢」33番、1888年) |
②小柄なかわいい女 |
なおひとこと、選り抜きの耳をもつ人々のために言っておこう、わたしが本来音楽に何を求めているかを。それは、音楽が十月のある日の午後のように晴れやかで深いことである。音楽が独特で、放恣で、情愛ふかく、愛想のよさと優雅さを兼ねそなえた小柄なかわいい女であることである。 – Ich sage noch ein Wort für die ausgesuchtesten Ohren: was ich eigentlich von der Musik will. Daß sie heiter und tief ist, wie ein Nachmittag im Oktober. Daß sie eigen, ausgelassen, zärtlich, ein kleines süßes Weib von Niedertracht und Anmut ist... (ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢いのか」第7節、1888年) |
③夜と薄明の芸術 |
夜と音楽。--恐怖の器官[Organ der Furcht] としての耳は、夜においてのみ、暗い森や洞穴の薄明のなかでのみ、畏怖の時代の、すなわちこれまで存在した中で最も長かった人間の時代の生活様式に応じて、現在見られるように豊かな発展することが可能だった。光のなかでは、耳はそれほど必要ではない。それゆえに、夜と薄明の芸術としての音楽の性格がある[der Charakter der Musik, als einer Kunst der Nacht und Halbnacht]。 (ニーチェ『曙光』250番、1881年) |
この①②③をそれぞれ、形式(象徴界)、仮象(想像界)、モノ自体(現実界)と置いてみよう。
ラカン的にはボロメオの環のそれぞれの重なり箇所が重要なのだが、仮象の「かわいい女」がときにわれわれを引き裂く「メデーナ」になるのは、物自体としての「夜と薄明」の境界に移行するからである。 |
完全な女は、愛する者を引き裂くのだ …… わたしは、そういう愛らしい狂女〔メナーデ〕たちを知っている …… ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! …… das vollkommne Weib zerreißt, wenn es liebt... Ich kenne diese liebenswürdigen Mänaden... Ach, was für ein gefährliches, schleichendes, unterirdisches kleines Raubtier! Und so angenehm dabei!... (ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに良い本を書くのか」第5節、 1888年) |
「夜と薄明」とはフロイト的には、「沈黙の死の女神」に相当する。 |
ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女、パートナー、破壊する女 [Die Gebärerin, die Genossin und die Verderberin]である。それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。 |
すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ恋人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地[Die Mutter selbst, die Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewählt, und zuletzt die Mutter Erde]である。 そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神[die dritte der Schicksalsfrauen, die schweigsame Todesgöttin]のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年) |
想像界と現実界の境界をラカンはJȺと置いたが、これは文字通りに読めば「穴の享楽」だ。 ジャック=アラン・ミレールは愛の別の顔は破壊であり、穴の原理としているが、これは事実上、JȺを示しており、かつ先の『三つの小箱』のフロイトとともに読むことができる。 |
重要なのはかわいい女は破壊の女に化けることだね。 |
女が憎むときは、男はその女を恐れるがいい。なぜなら、魂の底において、男は「たんなる悪意の者Seele nur böse」であるにとどまるが、女は「悪 schlecht」(何をしでかすかわからない)だから。 Der Mann fürchte sich vor dem Weibe, wenn es hasst: denn der Mann ist im Grunde der Seele nur böse, das Weib aber ist dort schlecht.(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「老いた女と若い女」1883年) |
音楽だってそうだ、《放恣で、情愛ふかく、愛想のよさと優雅さを兼ねそなえた小柄なかわいい女》が「恐怖の器官」としての耳を刺激する《危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣》に化けないなら、そんなのは「真の音楽」とは言い難い。
真の女は常にメデューサである[une vraie femme, c'est toujours Médée. ](J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991) |
『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身のイルマの注射の夢、おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メドゥーサの首 》と呼ぶ[rêve de l'injection d'Irma, la révélation de l'image terrifiante, angoissante, de ce que j'ai appelé « la tête de MÉDUSE »]。あるいは、名づけようもない深淵の顕現[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象そのものがある[l'objet primitif par excellence,]…すべての生が出現する女陰の奈落 [- l'abîme de l'organe féminin, d'où sort toute vie]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[- aussi bien le gouffre et la béance de la bouche, où tout est englouti, ]、すべてが終焉する死のイマージュ [- aussi bien l'image de la mort, où tout vient se terminer,]…(Lacan, S2, 16 Mars 1955) |