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2023年5月30日火曜日

キャッと叫んでロクロ首(吉行淳之介=牧野信一)

 

傷が痛みはじめるときの反応は、各人各様で、たとえば作家の牧野信一は、その状況を、

「きゃっと叫んでロクロ首になる」

 と、表現し、たしか広津和郎氏だったとおもうが、

「バカバカバカ、と小声で自分を罵る」

 ということになる。〔・・・〕


キャッと叫んでロクロ首になることのない人間は、紳士ではない。(吉行淳之介『不作法のすすめ』1973年)


とっても懐かしいね、学生時代に読んで、いまは手元にはなく、ネット上で落ちている断片をつなぎあわせた引用であり、正確な引用かどうかわからないが。「きゃっと」と「キャッと」が混在してたりして。


いまでもしばしばあるんだな、これが。つい先日書いたことを読み返したりしても、ときに「キャッと叫んでロクロ首になる」。


私はきのう書いたことをきょう読み直す、印象は悪い。それは持ちが悪い。腐りやすい食物のように、一日経つごとに、変質し、傷み、まずくなる。わざとらしい《誠実さ》、芸術的に凡庸な《率直さ》に気づき、意気阻喪する。さらに悪いことに、私は、自分では全然望んでいなかった《ポーズ》を認めて、嫌気がさし、いらいらする。(ロラン・バルト「省察」1979『テクストの出口』所収)


ーーって具合にね。



だいたい僕が他人を嘲笑するときは、そいつが「自分に似ている」せいだよ、少なくともかつての僕にね。


人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする[Habituellement, on déteste ce qui nous est semblable, et nos propres défauts vus du dehors nous exaspèrent]。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! (プルースト「囚われの女」)



つまり自己を語る遠まわしの方法なんだ。


自己を語る一つの遠まわしの方法[une manière de parler de soi détournée]であるかのように、人が語るのはつねに他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ[qui joint au plaisir de s'absoudre celui d'avouer.]。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人のなかに向けるように思われる。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)


先ほど、数日前に書いたことを読み直しこれに気づいて、ロクロ首になっちゃったよ。


・・・と記すことさえいやらしいねえ、バルト曰くの「わざとらしい《誠実さ》」のポーズみたいで。またしても「キャッと叫んでロクロ首」だね