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2023年6月14日水曜日

男も女も「子宮で考える」時代


 いやあ、このMr.イイカゲンニシロの応答、とってもウマイね


《脳ではなく子宮で考える女の典型って感じがしてすき》というのがトッテモスキ。

とはいえーー、である。女だけでなく男も似たようなものではないか、「子宮で考える」のは? とくに大衆化現象が究極化しつつあるツイッター社交界では。


同じ主題をめぐり、同じ言葉を語りうることを前提として群れ集まるものたちのみが群衆というやつなのだ。彼らが沈黙していようと、この前提が共有されているかぎり、それは群衆である。(蓮實重彦『物語批判序説』1985年)


大衆化現象は、まさに、…階層的な秩序から文化を解放したのである。そしてそのとき流通するのは、記号そのものではなく、記号の記号でしかない。…読まれる以前にすでに記号の記号として交換されているのである。〔・・・〕


問題は、欠落を埋める記号を受けとめ、その中継点となることなのではなく、もはや特定の個人が起源であるとは断定しがたい知を共有しつつあることが求められているのである。新たな何かを知るのではなく、知られている何かのイメージと戯れること、それが大衆化現象を支えている意志にほかならない。それは、知っていることの確認がもたらまがりなす安心感の連帯と呼ぶべきものだ……。そこにおいて、まがりなりにも芸術的とみなされる記号は、読まれ、聴かれ、見られる対象としてあるのではない、ともにその名を目にしてうなずきあえる記号であれば充分なのである。だから、それを解読の対象なのだと思ってはならない。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)



蓮實の『凡庸な芸術家の肖像』は、事実上は「凡庸な知識人の肖像」であり、つまり《まがりなりにも芸術的とみなされる記号》の「芸術的」は「知的」と言い換えうる。知的な「記号の記号」の流通が極限化しているのがツイッター社交界である、解読の対象ではなく、その名を目にしてうなずきあえる記号の流通が。


この、フローベールの友人マクシム・デュ・カンを主人公とした蓮實の書の文が言っていることは、クンデラの言っていることと相同的である。




フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあるのは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさも進歩する! ということです。

Le plus scandaleux dans la vision de la bêtise chez Flaubert, c'est ceci : La bêtise ne cède pas à la science, à la technique, à la modernité, au progrès ; au contraire, elle progresse en même temps que le progrès !


フローベールは、自分のまわりの人々が知ったかぶりを気取るために口にするさまざまの紋切り型の常套語を、底意地の悪い情熱を傾けて集めています。それをもとに、彼はあの有名な『紋切型辞典』を作ったのでした。この辞典の表題を使って、次のようにいっておきましょう。すなわち、現代の愚かさは無知を意味するのではなく、紋切型の無思想を意味するのだと[la bêtise moderne signifie non pas l'ignorance mais la non-pensée des idées reçues]。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。といいますのも、階級闘争のない未来、あるいは精神分析のない未来を想像することはできるとしても、さまざまの紋切型のとどめがたい増大ぬきに未来を想像することはできないからです。これらの紋切型はコンピューターに入力され、マスメディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険がありますし、この力によってあらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう。

(ミラン・クンデラ「エルサレム講演」1985年『小説の精神』所収)


そう、男も女も「子宮で考える」時代なのである。これが文明の進歩とともに愚かさも進歩するの意味である。

しかしながら、ここでふたたび、トハイエーー、である。

男は不幸にも実物の子宮をもっていない。あるのはファルスだけである。この意味で「子宮で考える」時代は女の時代であり、これが大衆化社会の宿命に他ならない。


原理の女性化がある。両性にとって女なるものがいる。過去は両性にとってファルスがあった[il y a féminisation de la doctrine [et que] pour les deux sexes il y a la femme comme autrefois il y avait le phallus.](エリック・ロラン Éric Laurent, séminaire du 20 janvier 2015)


このミレール派、つまり主流ラカン派ナンバーツーのエリック・ロランが事新しく言っていることは、実はラカンの若い友人だったソレルスが既に1983年に事実上言っている。


世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …

Le monde appartient aux femmes, il n'y a que des femmes, et depuis toujours elles le savent et elles ne le savent pas, elles ne peuvent pas le savoir vraiment, elles le sentent, elles le pressentent, ça s'organise comme ça. Les hommes? Écume, faux dirigeants, faux prêtres, penseurs approximatifs, insectes... Gestionnaires abusés... Muscles trompeurs, énergie substituée, déléguée...(ソレルス『女たち』1983年)


どう見たって大衆化の時代においては男はアブクである。そしてもはやファルスの時代に戻ることはありえない。男は女の下働き要員として生きる他ない。なんたって唯一の真理はかつても今も「子宮」なのだから。

恐らく真理とは、その根底を窺わせない根を持つ女なるものではないか?恐らくその名は、ギリシア語で言うと、バウボ[Baubo]というのではないか?…

Vielleicht ist die Wahrheit ein Weib, das Gründe hat, ihre Gründe nicht sehn zu lassen? Vielleicht ist ihr Name, griechisch zu reden, Baubo?... (ニーチェ『悦ばしき知』「序」第2版、1887年)


21世紀はことさら笑いながら生きる時代である・・・

十全な真理から笑うとすれば、そうするにちがいないような仕方で、自己自身を笑い飛ばすことーーそのためには、これまでの最良の者でさえ十分な真理感覚を持たなかったし、最も才能のある者もあまりにわずかな天分しか持たなかった! おそらく笑いにもまた来るべき未来がある! それは、 「種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい die Art ist Alles, Einer ist immer Keiner」という命題ーーこうした命題が人類に血肉化され、誰にとっても、いついかなる時でも、この究極の解放[letzten Befreiung] と非責任性[Unverantwortlichkeit] への入り口が開かれる時である。その時には、笑いは知恵と結びついていることだろう。その時にはおそらく、ただ「悦ばしき知」のみが存在するだろう。 (ニーチェ『悦ばしき知』第1番、1882年)



以上、いくらかの論理の破綻があるのは重々承知しているが、それは「子宮」で考えたせいである・・・

お、なんだかケッタイな声がしてくるな


素子とは何者であるか? 谷村の答へはたゞ一つ、素子は女であつた。そして、女とは? 谷村にはすべての女がたゞ一つにしか見えなかつた。女とは、思考する肉体であり、そして又、肉体なき何者かの思考であつた。この二つは同時に存し、そして全くつながりがなかつた。つきせぬ魅力がそこにあり、つきせぬ憎しみもそこにかゝつてゐるのだと谷村は思つた。   (坂口安吾「女体」1946年)

男がものごとを考える場合について、頭と心臓をふくむ円周を想定してみる。男はその円周で、思考する。ところが、女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。(吉行淳之介『男と女をめぐる断章』1978年)


ところでなぜ女は子宮だけではなく、肉体なき何者かの思考、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるのだろうか?


ここでもラカン派を引用しておこう。


ヒステリーにおけるエディプスコンプレクス…何よりもまずヒステリーは過剰なファルス化を「選択」する、ヴァギナについての不安のせいで。the Oedipus complex in hysteria,…that hysteria first of all 'opts' for this over-phallicisation because of an anxiety about the vagina. . (PAUL VERHAEGHE,  DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)



21世紀の男が望まねばならないのは、女がときにファルスで考えるのではないようにせねばならぬことである。女たちは子宮で考えることに専念して頂かねばならない。

ラカンは、大胆かつ論理的に、パロール享楽をファルス享楽と同じものとしている。ファルス享楽が身体と不一致するという理由で[jouissance de la parole que Lacan identifie, avec audace et avec logique, à la jouissance phallique en tant qu'elle est dysharmonique au corps. ](J.-A. Miller, L'inconscient et le corps parlant, 2014)

パロールは寄生虫。パロールはうわべ飾り。パロールは人間を悩ます癌の形式である[La parole est un parasite. La parole est un placage. La parole est la forme de cancer dont l'être humain est affligé.](Lacan, S23, 17 Février 1976)



よく知られているように、ベラベラ喋りまくるパロール享楽はうわべを飾った女の特技である。そのうわべを取っ払い、子宮享楽に専念して頂ければ、安吾曰くの《つきせぬ憎しみ》は消えてなくなる。あるのは《つきせぬ魅力のみ》である。ここに21世紀の男たちの唯一の望みがあるのではないか。

子宮享楽の別名は猫の享楽である。


三人目の女…私を好ませる女ーーくわばらくわばらーー、この女たちの猫撫で声は疑いもなく、猫の享楽[la jouissance du chat]だよ。それが喉から発せられるのか別の場所から来るのかは私には皆目わからないが。私が彼女たちを愛撫するときを思うと、それは身体全体から来ているように見える。


« Troisième ». [...] me favorise - touchons du bois - me favorise de ce que le ronron, c'est sans aucun doute la jouissance du chat. Que ça passe par son larynx ou ailleurs, moi j'en sais rien, quand je les caresse  ça a l'air d'être de tout le corps, (ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)