『グラディーヴァ』の主人公は尋常ならざる恋人である。ほかの者なら思う浮かべただけで終るものを、幻覚 hallucineとして体験し、とり憑かれているのだ。それと気づかぬままに愛している女性がいて、そのフィギュールとなるのが、いにしえの女グラディーヴァなのであるが、彼はこれを現実の女性として知覚している。そのことが彼の妄想 délireである。ところで問題の女性は、ひとまずは彼の妄想に同調したうえで、穏やかにそこから引き離そうとしている。ある程度まで彼の妄想の中へ入りこみ、あえてグラディーヴァの役を演じ、幻影 illusionを一挙に打ちこわしたり、夢想 rêveurから唐突に目覚めさせたりはせず、それと気づかぬうちに現実に近づいていってやろうとするのだ。そのことで、ひとつの恋愛体験が、分析治療と同じ機能を果たすことになるのである。……(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「GRADIVA」の項)
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ここでのバルトは、フロイトの『W.イェンゼンの《グラディーヴァ》における妄想と夢』をめぐって語っている。この小説の主人公若き考古学者ノベルト・ハーノルトは、女にも社交にもまったく関心がなく、大理石像やブロンズ像のみに愛を捧げている人物だが、ある時、ローマの考古学美術館でひとつのレリーフにひどく魅せられた。
比較的長いフロイトの叙述を端折っていえば、この独特の歩き方をする女性が、ハーノルトは長いあいだ気づかないままだったが、幼少期の女友達ツォエ・ベルトガンクだったという話で、途中、ホラチウスの "Naturam furca expellas, semper redibit"ーー厳密には、《自然的本性を熊手で無理やり追いだしても、それはかならずや戻ってやってくる[Naturam expellas furca, tamen usque recurret]》ーー、あるいは《抑圧された印象[verdrängten Eindrücken]》、《抑圧された愛の憧憬[verdrängte Liebessehnsucht]》、《抑制された欲動 [unterdrückte Trieb ]》等々のことを言いつつ、この1907年当時のフロイトが把握する《抑圧されたものの回帰[Wiederkehr des Verdrängten]》の具体的事例として説いている。
後年のフロイトにおいて「抑圧されたものの回帰」についてのいっそうの精緻化の記述があるとはいえ、一般の人がこの「回帰」を捉えるには、とても役に立つ《グラディーヴァ》の筈である。
ここでは「抑圧されたものの回帰」についてはこれ以上「直接には」触れず、トカゲの罠と割れ目の箇所を引用する。
「どこかの日なたにグラディーヴァが坐っていて、一本の草の茎でトカゲを捕える罠を作っていた、それから彼女はさらに『ちょっと、静かにしてちょうだい ーーあたしのお友達の言ったこと本当だわ、この方法はじつに素晴らしいわ、あの人、これを使ってとてもうまくいったんですって』と言った」
»Irgendwo in der Sonne saß die Gradiva, machte aus einem Grashalm eine Schlinge, um eine Eidechse drin zu fangen und sagte dazu: ›Bitte, halte dich ganz ruhig – die Kollegin hat recht, das Mittel ist wirklich gut und sie hat es mit bestem Erfolge angewendet.‹«
〔・・・〕
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…トカゲ捕獲(トカゲの罠)は男性捕獲の意味をおびることになって、けっきょくグラディーヴァの言葉はいわばこのように言い換えられる、「まあ見ていてちょうだい、あたしだってそのお嬢さんと同じぐらい上手に男を捕まえるぐらい心得ているんですから」と。
der Eidechsenfang bekommt die Bedeutung des Männerfanges, und die Rede der Gradiva heißt etwa: Laß mich nur machen, ich verstehe es ebenso gut, mir einen Mann zu gewinnen wie dieses andere Mädchen.〔・・・〕
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ここでわれわれは、ハーノルトが、グラディーヴァの姿がすっとかき消えたように見えた例の壁のところに、「非常に細い身体つきの人なら」通り抜けられるくらいの一つの割れ目を発見したという個所があったのを思い出してみよう。この割れ目に気づいたことが契機となって、その日のうちに彼の妄想は修正されることになる、すなわち彼の眼の前からかき消えたグラディーヴァは地中に沈んだのではなく、ここを通路に自分の墓場にもどっていったのだと。このとき彼の無意識的な思考は、娘の姿が突然消え去ったことにたいしてとうとうごく自然な説明が見つかったぞとつぶやいたかもしれない。だが、狭い割れ目を無理に通り抜けるということや、そのような割れ目に姿を消すということは、トカゲの動作を思い出させるに充分ではなかったろうか。グラディーヴァのそのときの身のこなしは、小さなすばしこいトカゲのようだとさえいいうるようなものではなかったろうか。
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Erinnern wir uns, daß Hanold einen Spalt in der Mauer entdeckt hatte, an der Stelle, wo ihm die Gradiva zu verschwinden schien, der »immerhin breit genug war, um eine Gestalt von ungewöhnlicher Schlankheit« durchschlüpfen zu lassen. Durch diese Wahrnehmung wurde er bei Tag zu einer Abänderung in seinem Wahn veranlaßt, die Gradiva versinke nicht im Boden, wenn sie seinen Blicken entschwinde, sondern begebe sich auf diesem Wege in ihre Gruft zurück. In seinem unbewußten Denken mochte er sich sagen, er habe jetzt die natürliche Erklärung für das überraschende Verschwinden des Mädchens gefunden. Muß aber nicht das sich durch enge Spalten Zwängen und das Verschwinden in solchen Spalten an das Benehmen von Lacerten erinnern? Verhält sich die Gradiva dabei nicht selbst wie ein flinkes Eidechslein?
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(フロイト『W.イェンゼンの《グラディーヴァ》における妄想と夢』1907年)
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今回、読み返していてはじめて気づいたのだが、この箇所は芥川龍之介の河童の話だね、ほとんどそのまま。
実際又河童の恋愛は我々人間の恋愛とは余程趣を異にしてゐます。雌の河童はこれぞと云ふ雄の河童を見つけるが早いか、雄の河童を捉へるのに如何なる手段も顧みません。一番正直な雌の河童は遮二無二雄の河童を追ひかけるのです。現に僕は気違ひのやうに雄の河童を追ひかけてゐる雌の河童を見かけました。いや、そればかりではありません。若い雌の河童は勿論、その河童の両親や兄弟まで一しよになつて追ひかけるのです。雄の河童こそ見じめです。何しろさんざん逃げまはつた揚句、運好くつかまらずにすんだとしても、二三箇月は床についてしまふのですから。〔・・・〕
尤も又時には雌の河童を一生懸命に追ひかける雄の河童もないわけではありません。しかしそれもほんたうの所は追ひかけずにはゐられないやうに雌の河童が仕向けるのです。僕はやはり気違ひのやうに雌の河童を追ひかけてゐる雄の河童も見かけました。雌の河童は逃げて行くうちにも、時々わざと立ち止まつて見たり、四つん這ひになつたりして見せるのです。おまけに丁度好い時分になると、さもがつかりしたやうに楽々とつかまつてしまふのです。(芥川龍之介『河童』)
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………………
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そもそも割れ目は回帰するからな、誰にとっても。男女両性ともに。
不気味なものは秘密の慣れ親しんだものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである[das Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist,](フロイト『不気味なもの』第3章、1919年)
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つまり不気味なものの回帰は抑圧されたものの回帰だ。
そしてーー、
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女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches.
しかしこの不気味なものは、人がみなかつて最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。Dieses Unheimliche ist aber der Eingang zur alten Heimat des Menschenkindes, zur Örtlichkeit, in der jeder einmal und zuerst geweilt hat.
冗談にも「愛はノスタルジーだ」と言う。 »Liebe ist Heimweh«, behauptet ein Scherzwort,
そして夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器、あるいは母胎であるとみなしてよい。und wenn der Träumer von einer Örtlichkeit oder Landschaft noch im Traume denkt: Das ist mir bekannt, da war ich schon einmal, so darf die Deutung dafür das Genitale oder den Leib der Mutter einsetzen.
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したがっての場合においてもまた、不気味なものはこかつて親しかったもの、昔なじみのものである。この言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴なのである。
Das Unheimliche ist also auch in diesem Falle das ehemals Heimische, Altvertraute. Die Vorsilbe » un« an diesem Worte ist aber die Marke der Verdrängung. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年)
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というわけで、抑圧されたものの回帰の典型的なひとつ、ーーいや「究極の」と言ったほうがいいかーーは「割れ目の回帰」、「愛のノスタルジーの場処の回帰」にほかならない。
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…………………
最後のフロイトは抑圧はダムだと言った。
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抑圧は、水の圧力に対するダムのように振る舞う[Die Verdrängungen benehmen sich wie Dämme gegen den Andrang der Gewässer. ](フロイト『終りある分析と終りなき分析』 第3章、1937 年)
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抑圧されたものの回帰とは、ダムは水の圧力に負けて、水が戻って来るということだ。
ヒトにとって最も強い水の圧力は玄牝之門の圧力、永遠の泉の圧力に決まっている。
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谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子「道徳経」第六章「玄牝之門」)
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谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ。(老子「玄牝之門」福永光司訳)
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おお、永遠の泉よ、晴れやかな、すさまじい、正午の深淵よ。いつおまえはわたしの魂を飲んで、おまえのなかへ取りもどすのか[- wann, Brunnen der Ewigkeit! du heiterer schauerlicher Mittags-Abgrund! wann trinkst du meine Seele in dich zurück?](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「正午 Mittags」)
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……………
最後に、"zurückgreifend"(go back) 、"wiederherstellen"(restore・recover)、"Rückkehr"(return)をすべて「回帰」と訳して、フロイトの三文を並べておこう。
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生の目標は死であり、死への回帰である[Das Ziel alles Lebens ist der Tod, und zurückgreifend:]〔・・・〕
有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった[der Organismus nur auf seine Weise sterben will; auch diese Lebenswächter sind ursprünglich Trabanten des Todes gewesen. ](フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)
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以前の状態に回帰しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である〔・・・〕。この欲動的反復過程…[ …ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (…) triebhaften Wiederholungsvorgänge…](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年、摘要)
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人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, (…) eine solche Rückkehr in den Mutterleib.] (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)
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「死への回帰=以前の状態へ回帰=母胎回帰」であり、これが「抑圧されたものの回帰」の原像ーー《抑圧されたトラウマ[verdrängte Trauma]》(フロイト『精神分析技法に対するさらなる忠告』1913年)、《抑圧された固着[verdrängten Fixierungen] 》(『精神分析入門』第23講、1917年)、あるいは《抑圧された欲動[ verdrängte Trieb]》(『快原理の彼岸』1920年)の回帰の原点ーーにほかならない。
出産外傷、つまり出生という行為は、一般に母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、原抑圧[Urverdrängung]を受けて存続する可能性をともなう原トラウマ[Urtrauma]と見なせる。
Das Trauma der Geburt .… daß der Geburtsakt,… indem er die Möglichkeit mit sich bringt, daß die »Urfixierung«an die Mutter nicht überwunden wird und als »Urverdrängung«fortbesteht. …dieses Urtraumas (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)
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こうもつけ加えておこうか、「トカゲは何よりもまずペニスを意味する。だがトカゲは母胎回帰をも意味する」と。
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橋は何よりもまず、両親が性交において結びつく男根を意味する[der Brücke…Es bedeutet ursprünglich das männliche Glied, das das Elternpaar beim Geschlechtsverkehr miteinander verbindet]。
だがそこからさらに別の意味への展開がある。その意味は、橋は、他の世界(未生の状態、子宮)からこの世界(生)へのの越境である。さらに橋は母胎回帰(羊水への回帰)としての死をもイメージする[wird die Brücke der Übergang vom Jenseits (dem Noch-nicht-geboren-sein, dem Mutterleib) zum Diesseits (dem Leben), und da sich der Mensch auch den Tod als Rückkehr in den Mutterleib (ins Wasser) vorstellt, ](フロイト『新精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933年)
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