そうかそうか、プラトンの白い馬と黒い馬、御者の話は、最終的には、蚊居肢散人の魂と同じ状態に至るんだな、「美しい人を見ると、おそろしさのあまり、たえ入らんばかりになる。かくして、いまやついに、恋する者の魂は、愛人の後をしたうとき、慎しみと怖れにみたされるということになるのである」なんて。すっかり忘れてたよ
◼️プラトン『パイドロス』 |
246A-B |
魂の似すがたを、翼を持った一組の馬と、その手綱をとる翼を持った馭者とが、一体になってはたらく力であるというふうに、思いうかべよう――神々の場合は、その馬と馭者とは、それ自身の性質も、またその血筋からいっても、すべて善きものばかりであるが、神以外のものにおいては、善いものと悪いものとがまじり合っている。そして、われわれ人間の場合、まず第一に、馭者が手綱をとるのは二頭の馬であること、しかも次に、彼の一頭の馬のほうは、資質も血すじも、美しく善い馬であるけれども、もう一頭のほうは、資質も血すじもこれと反対の性格であること、これらの理由によって、われわれ人間にあっては、馭者の仕事はどうしても困難となり、厄介なものとならざるをえないのである。 |
小さいながらもオチンチンつきのところがいいね、ーー《むしょうに女がほしかった。股倉に手をやると、ヨシコが棒のようだった。熱い棒のようなヨシコを俺は手で握っていた。ヤチに会いたいとゴロマク(あばれる)ヨシコを俺は手でおさえつけていた。》(高見順『いやな感じ』) |
253C-254E |
この物語のはじめに、われわれは、それぞれの魂を三つの部分に分けた。その二つは、馬の姿をしたものであり、第三のものは、馭者の姿をもったものであった。いまも引きつづいて、これらの姿をそのまま思い浮かべることにしよう。ところで、われわれの説くところによると、これらの馬のうち、一方はすぐれた馬であり、他方はそうでないということであった。しかし、われわれは、そのよい馬がどのようなよいところをもち、悪い馬がもっている悪い点とはどのようなものかということについては、くわしく話さなかった。それをいま、話さなくてはいけない。 |
そこで、この二頭の馬のうち、よいほうの位置(右)にある馬をみると、その姿は端正、四肢の作りも美しく、うなじ高く、威厳ある鉤鼻、毛なみは白く、目は黒く、節度と慎みをあわせ持った名誉の愛好者、まことの名声を友とし、鞭うたずとも、言葉で命じるだけで馭者に従う。 これに対して、もう一方の馬はとみれば、その形はゆがみ、贅肉に重くるしく、軀の組み立てはでたらめで、太いうなじ、短い頸、平たい鼻、色はどすぐろく、目は灰色に濁って血ばしり、放縦と高慢の徒、耳が毛におおわれて、感がにぶく、鞭をふるい突き棒でつついて、やっとのことで言うことをきく。 |
――さて、馭者が恋ごころをそそる容姿を目にして、熱い感覚を魂の全体におしひろげ、うずくような欲望の針を満身に感じたとしよう。馭者のいうことをよくきくほうの馬は、このときいつもと同じように、慎みの念におさえられて、自分が恋人にとびかかって行くのを制御する。けれども、もう一方の馬は、もはや馭者の突き棒も鞭もかえりみればこそ、跳びはねてはしゃにむにつき進み、仲間の馬と馭者とにありとあらゆる苦労をかけながら、愛人のところに行って、愛欲の歓びの話をもちかけるようにと彼らに強要する。馭者とよい馬とは、はじめのうちこそ、道にはずれたひどいことを強いられたのに憤然として、これに抵抗するけれども、しかし最後には、苦しい状態が際限なくつづくと、譲歩して要求されたことをするのに同意し、引かれるがままに前へ進む。そしてそのまぢかまで来たとき、いまや彼らは、愛する人の光りかがやく容姿を目にする。 |
だが、馭者がその姿を目にしたそのとき、彼の記憶は《美》の本体へとたちかえり、それが《節制》とともにきよらかな台座の上に立っているのを、ふたたびまのあたりに見る。よびおこされたこの光景に、彼は怖れにふるえ、畏敬に打たれて、仰向けに倒れ、倒れざまにやむをえず、握った手綱を激しくうしろに引くため、その勢いに二頭の馬は、両方とも尻もちをついてしまう。一方はさからわないから引かれるがままに、暴れ馬のほうはひじょうにもがきながら。 |
遠くへひきさがってから、一方の馬は、はじらいと驚きのために、魂を汗でくまなく濡らす。しかしもう一頭のほうは、くつばみを引かれて転倒したために受けた痛さがやんで、やっとどうやら元気を回復すると、怒りを破裂させてののしりはじめ、馭者と仲間の馬とに向かって、卑怯にも、臆病にも、持ち場を捨て約束を裏切ったと言っては、数々の罵言をあびせかける。そしてまたもや、気の進まぬ彼らを強いて、むりやりに近くへ行かせようとし、先まで延ばしてくれるようにと彼らが頼むと、やっと不承ぶしょうにそれを承諾する。 約束されたその時が来ると、この馬は、わすれたふりをしている彼らにそれを思い出させ、暴れ、いななき、ひっぱりながら、またしても、同じことを言い寄るために愛人のそばに行くことを強要し、そして近くへ来るや、頭をかがめ、尾を張り、くつばみをくわえこんで、恥じる気色もなく前へひっぱる。しかしながら、馭者は、前のときと同じ感情にさらにいっそう強く動かされて、あたかも競馬場の騎手が、出発点の綱のところから、はやり立つ馬を引きもどすときのような勢いで、うしろに倒れ、この暴れ馬の歯の間にくわえこまれたくつばみを、前にもましてはげしく、力まかせに引っぱって、口きたなく罵しるその舌とあごとを血に染め、その脚と腰とを地にたたきつけて苦痛の手に引き渡す。 |
こうして幾度となく同じ目にあったあげく、さしものたちの悪い馬も、わがままに暴れるのをやめたとき、ようやくにしてこの馬は、へりくだった心になって、馭者の思慮ぶかいはからいに従うようになり、美しい人を見ると、おそろしさのあまり、たえ入らんばかりになる。かくして、いまやついに、恋する者の魂は、愛人の後をしたうとき、慎しみと怖れにみたされるということになるのである。 |
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And when this has happened several times and the villain has ceased from his wanton way, he is tamed and humbled, and follows the will of the charioteer, and when he sees the beautiful one he is ready to die of fear. And from that time forward the soul of the lover follows the beloved in modesty and holy fear. |
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ὅταν δὲ ταὐτὸν πολλάκις πάσχων ὁ πονηρὸς τῆς ὕβρεως λήξῃ, ταπεινωθεὶς ἕπεται ἤδη τῇ τοῦ ἡνιόχου προνοίᾳ, καὶ ὅταν ἴδῃ τὸν καλόν, φόβῳ διόλλυται: ὥστε συμβαίνει τότ᾽ ἤδη τὴν τοῦ ἐραστοῦ ψυχὴν τοῖς παιδικοῖς αἰδουμένην τε καὶ δεδιυῖαν |
リルケのドゥイノの冒頭はここからパクったのかもな
美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを称賛するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。(リルケ『ドゥイノ・エレギー』第一の悲歌、古井由吉訳) |
Denn das Schöne ist nichts als des Schrecklichen Anfang, den wir noch grade ertragen, und wir bewundern es so, weil es gelassen verschmäht, uns zu zerstören. Ein jeder Engel ist schrecklich. ーーRainer Maria Rilke: Duineser Elegien |
どうしたって真の美に遭遇したら、自己破壊に駆り立てられるからな、 |
自我の機能上の重要さは、正常な場合には、運動への通路の支配が、自我にゆだねられるという点に現れている。このように、エスにたいする関係は、奔馬を統御する騎手に比較される。騎手はこれを自分の力で行うが、自我はかくれた力で行う、という相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志[Willen des Es] を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがよくある。 |
Die funktionelle Wichtigkeit des Ichs kommt darin zum Ausdruck, daß ihm normalerweise die Herrschaft über die Zugänge zur Motilität eingeräumt ist. Es gleicht so im Verhältnis zum Es dem Reiter, der die überlegene Kraft des Pferdes zügeln soll, mit dem Unterschied, daß der Reiter dies mit eigenen Kräften versucht, das Ich mit geborgten. Dieses Gleichnis trägt ein Stück weiter. Wie dem Reiter, will er sich nicht vom Pferd trennen, oft nichts anderes übrigbleibt, als es dahin zu führen, wohin es gehen will, so pflegt auch das Ich den Willen des Es in Handlung umzusetzen, als ob es der eigene wäre. |
(フロイト『自我とエス』第2章、1923年) |
エスの力[Macht des Es]は、個々の有機体的生の真の意図を表す。それは生得的欲求の満足に基づいている。己を生きたままにすること、不安の手段により危険から己を保護すること、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。〔・・・〕エスの欲求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された強制力 [Kräfte]は、欲動と呼ばれる。欲動は、心的な生の上に課される身体的要求を表す。 |
Die Macht des Es drückt die eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesens aus. Sie besteht darin, seine mitgebrachten Bedürfnisse zu befriedigen. Eine Absicht, sich am Leben zu erhalten und sich durch die Angst vor Gefahren zu schützen, kann dem Es nicht zugeschrieben werden. Dies ist die Aufgabe des Ichs […] Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe. Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben. |
(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
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欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年) |
自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年) |
マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている[Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat.]〔・・・〕 我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない[Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. ](フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
で、美ってのは究極的には美女のことだよ、メデューサなる真の女のことさ
つまり女郎蜘蛛のことさ。 |
蜘蛛よ、なぜおまえはわたしを糸でからむのか。血が欲しいのか。ああ!ああ![Spinne, was spinnst du um mich? Willst du Blut? Ach! Ach! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第4節、1885年) |
おお、永遠の泉よ、晴れやかな、すさまじい、正午の深淵よ。いつおまえはわたしの魂を飲んで、おまえのなかへ取りもどすのか[- wann, Brunnen der Ewigkeit! du heiterer schauerlicher Mittags-Abgrund! wann trinkst du meine Seele in dich zurück?](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「正午 Mittags」) |
月光をあびてのろのろと匍っているこの蜘蛛[diese langsame Spinne, die im Mondscheine kriecht]、またこの月光そのもの、また門のほとりで永遠の事物についてささやきかわしているわたしとおまえーーこれらはみなすでに存在したことがあるのではないか。 そしてそれらはみな回帰するのではないか、われわれの前方にあるもう一つの道、この長いそら恐ろしい道をいつかまた歩くのではないかーーわれわれは永遠回帰[ewig wiederkommen]する定めを負うているのではないか。 (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「 幻影と謎 Vom Gesicht und Räthsel」 第2節、1884年) |
な、チョロいこと言ってんなよ、美は優雅とか快感とか。
肝心なのは崇高だよ
崇高の感情の質は、不快の感情によって構成されている[Die Qualität des Gefühls des Erhabenen ist: daß sie ein Gefühl der Unlust] (カント『判断力批判』27章) |
崇高による動揺は、衝撃に比較しうる。たとえば斥力と引力の目まぐるしい変貌に。この、構想力(想像力)にとって法外のものは、あたかも深淵であり、その深淵により構成力は自らを失うことを恐れる。 Diese Bewegung kann […] mit einer Erschütterung verglichen werden, d. i. mit einem schnellwechselnden Abstoßen und Anziehen […]. Das überschwengliche für die Einbildungskraft[…] ist gleichsam ein Abgrund, worin sie sich selbst zu verlieren fürchtet; (カント『判断力批判』27章) |
不快なき美なんてのはお子様ランチだよ
不快の審級にあるものは、非自我、自我の否定として刻印されている。非自我は異者としての身体、異物として現れる[c'est ainsi que ce qui est de l'ordre de l'Unlust, s'y inscrit comme non-moi, comme négation du moi, …le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt ] (Lacan, S11, 17 Juin 1964) |
不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance.] (Lacan, S17, 11 Février 1970) |
欲動過程による不快[die Unlust, die durch den Triebvorgang](フロイト『制止、症状、不安』第9章) |
エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。 Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
かつての「常識」がまったく通用しなくまっちまってるんだからな、
美は常に異様なものである。…私が言いたいのは、美の中には、常に、少量の奇妙さ、素朴な、故意のものではない、無意識の異様さがふくまれており、「美」を特に「美」たらしめているものは、まさにこの異様さだということである。それは、美の登録証明であり、特徴なのだ。 Le beau est toujours bizarre. ... Je dis qu'il contienttoujours un peu de bizarrerie, de bizarrerie naïve, non voulue, inconsciente, et que c'est cette bizarrerie qui le fait êtreparticulièrement Beau.C'est son immatriculation, sa caractéristique. ボードレール, Curiosités esthétiques, 1868) |
言っておかねばならない、ひとりの女は異様なものである。ひとりの女は異者である[une femme, il faut le dire, c'est une bizarrerie, c'est une étrangeté.](Lacan, S25, 11 Avril 1978) |
女は男とは異なり、永遠に不可解な、神秘的で、異者のようなものである[ das Weib anders ist als der Mann, ewig unverständlich und geheimnisvoll, fremdartig ](フロイト『処女性のタブー』1918年) |
実に21世紀は知的退行の世紀だよ