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2023年8月3日木曜日

人道を口にする者は詐欺師(シュミット)、道徳を憂慮する者は不穏な侵入者(モーゲンソー)

 


人道を口にする者は詐欺師である[Wer Menschheit sagt will betrügen](カール・シュミット『政治的なものの概念』Carl Schmitt, Der Begriff des Polotischen

1932)


私に対しての多くの批判が、私の政治分析において道徳的配慮が欠けていると主張するが、それは誤りである。彼らは道徳と政治を結びつけたり、政治の中に道徳を見出そうとするが、それがそもそもの誤りなのである。道徳と政治の齟齬を立証しようとする者があるかもしれない。それは、人がすることと、すべきことの間の乖離、すなわち道徳と現実の間の乖離を調べようとすることになるだろう。だが、これは道徳についての極めて安易な考え方である。道徳問題を憂慮するものは、不穏な侵入者である。これこそが、道徳についての私の立場である。つまり私は、政治における道徳問題を埒外に置いているのではなく、むしろそれを非常に憂慮しているのである。(モーゲンソー講義録ノート1952年)

Those critics of mine who believe that I have no moral concern with politics are mistaken; they are bound to be mistaken because they identify morality with politics; they find morality in politics. Anybody who attempts to demonstrate that he finds a discrepancy between morality and politics is misunderstood. It is as if the test of morality were to gloss over the gap between what men do and what they ought to do to identify morality and reality. . . . Any one who worries about moral problems is a kind of disturbing intruder. This is the position in which I find myself in regard to the problem of morality. People arrive at the conclusion that I am not concerned with the problem of morality in politics. The truth is that I am too much concerned with it . 

ーーMorgenthau, University of Chicago, 1952




このシュミットとモーゲンソーはいかにもマキャベリ的だ。


これにつけても、覚えておきたいのは、民衆というものは、頭を撫でるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならないことである。というのは、人はささいな侮辱に対しては復讐しようとするが、大きな侮辱に対しては復讐しえないからである。したがって、人に危害を加えるときは、復讐のおそれがないように行なわなければならない。(マキャベリ『君主論』)

あらゆる君主にとって、残酷よりは憐れみぶかいと評されることが望ましいことにちがいない。だが、こうした恩情も、やはりへたに用いることのないように心がけねばならない。たとえば、チューザレ・ボルジアは、残酷な人物とみられていた。しかし、この彼の残酷さがロマーニャの秩序を回復し、この地方を統一し、平和と忠誠を守らせる結果となったのである。とすると、よく考えれば、フィレンツェ市民が、冷酷非道の悪名を避けようとして、ついにピストイアの崩壊に腕をこまねいていたのにくらべれば、ボルジアのほうがずっと憐れみぶかかったことが知れる。したがって、君主たる者は、自分の臣民を結束させ、忠誠を守らすためには、残酷だという悪評をすこしも気にかけてはならない。というのは、あまりに憐れみぶかくて、混乱状態をまねき、やがて殺戮や略奪を横行させる君主にくらべれば、残酷な君主は、ごくたまの恩情がある行ないだけで、ずっと憐れみぶかいとみられるからである。また、後者においては、君主がくだす裁決が、ただ一個人を傷つけるだけですむのに対して、前者のばあいは、国民全体を傷つけることになるからである。(マキャベリ『君主論』)



もちろんチューザレ・ボルジアを愛したニーチェ的でもあるが。


善とは何か? ――力の感情を、力への意志を、力自身において高めるすべてのもの。

劣悪とは何か? ――弱さから由来するすべてのもの。

幸福とは何か? ――力が生長するということの、抵抗が超克されるということの感情。

満足ではなくて、より以上の力。総じて平和ではなくて、戦い。徳ではなくて、有能性(ルネッサンス式の徳、virtu、道徳に拘束されない徳)。

Was ist gut? — Alles, was das Gefühl der Macht, den Willen zur Macht, die Macht selbst im Menschen erhöht. 

Was ist schlecht? — Alles, was aus der Schwäche stammt. 

Was ist Glück? — Das Gefühl davon, daß die Macht wächst -- daß ein Widerstand überwunden wird.    

Nicht Zufriedenheit, sondern mehr Macht; nicht Friede überhaupt, sondern Krieg; nicht Tugend, sondern Tüchtigkeit (Tugend im Renaissance-Stile, virtu, moralinfreie Tugend). 

(ニーチェ『反キリスト者』1888年)


超人 Übermensch]という語は、「近代」人、「善」人、キリスト教徒、およびその他のニヒリストたちと対立する最高に出来のよい人間のタイプを言いあらわすものでーーこの語が、道徳の絶滅者であるツァラトゥストラのような人物のロにのぼると、きわめて意味の深いものとなるのだがーーそれが、ほとんど至るととろで、しどく無邪気に、ツァラトゥストラ という形姿によってあらわされているものとは反対の価値を意味するものとして解されている。たとえば、より高い種類の人間の「理想主義的」タイプ、なかば「聖者」で、なかば「天才」であるひとつのタイプとしてというふうに。……


また、別のとんまな学者は、この語を楯にとって、ダーウィン 主義の嫌疑をわたしにかけた。「英雄崇拝」、知らずしらず心ならずも大のにせがねづくりになってしまったカーライルのあの思想、わたしがあれほど意地悪く拒否した「英雄崇拝」を、この語の中に認めると言う者さえ出てきた。「超人」の例なら、パルジファルなどより、チェザレ・ボルジアのようなタイプの人間を探した方がいい、とわたしがある人にささやいたら、その人は、自分の耳を信じようとしなかった。(ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなによい本を書くのか」1888年)





柄谷はマキャベリやニーチェの道徳判断の括弧入れを指摘しているが、カントの三批判ーー認識的判断・道徳的判断・趣味判断(美的判断)ーーについて柄谷は次のように注釈している。


カントは、ある対象に対するわれわれの態度を、これまでの伝統的区別にしたがって、三つに分けている。ひとつは、真か偽かという認識的な関心、第二に、善か悪かという道徳的な関心、もうひとつは、快か不快かという趣味判断。〔・・・〕


カントが趣味判断のための条件としてみたのは、ある物を「無関心」において見ることである。無関心とは、さしあたって、認識的・道徳的関心を括弧に入れることである。というのも、それらを廃棄することはできないからだ。


しかし、このような括弧入れは、趣味判断に限定されるものではない。科学的認識においても同様であって、他の関心は括弧に入れられねばならない。たとえば、外科医が診察・手術において、患者を美的・道徳的に見ることは望ましくないであろう。また、道徳的レヴェル(信仰)においては、真偽や快・不快は括弧に入れられなければならない。こうした括弧入れは近代的なものである。それはまず近代の科学認識が、自然に対する宗教的な意味づけや呪術的動機を括弧に入れることによって成立したことから来ている。ただし、他の要素を括弧に入れることは、他の要素を抹殺してしまうことではない。(柄谷行人「建築の不純さ」2001年)


真偽という認識的判断、善悪という道徳的判断、快不快という趣味判断(美的判断)の「純粋化」のためには、別の領域を括弧入れする必要があるという思考である。ーー《趣味とは、或る対象もしくはその対象を表象する仕方を、一切の没関心において、好き(快)あるいは嫌い(不快)によって判定する能力である。そしてかかる好みの対象がすなわち美と名づけられるのである[Geschmack ist das Beurteilungsvermögen eines Gegenstandes oder einer Vorstellungsart durch ein Wohlgefallen, oder Mißfallen, ohne alles Interesse. Der Gegenstand eines solchen Wohlgefallens heißt schön.  ]》(カント『判断力批判』第6節)



もちろん最終的には括弧入れを外さねばならないが、政治においても先ずは、善悪という道徳的判断を括弧入れして、真偽という認識的判断せねばならない。シュミットもモーゲンソーもカントに影響を受けているのは間違いなく、二人の言葉はこのように理解できる。