小説というのは年月がかかります。詩や歌だと若ければ非常に鋭いものを出せるけど、小説はやっぱり歳と共に、というところがあるようです。〔・・・〕 それから、どうにか一作を克服すると、なんだか自分の生命力が亢進されたような、そういう満足もあるんです。 そのとき、書いた作品の出来不出来は問題じゃないんですよ。自分の中の何かを掘り出したなって感じられればいい。作品の出来不出来はその都度その都度あるもので、それを抱え込んでしまったら、小説がよくなるはずがないってことがあります。(古井由吉「新潮」2017 年 6 月号 又吉直樹対談) |
自分の中の何かを掘り出すってのはこの犀星でもあるな、異質の作家を並べるが。 |
私といふ作家はその全作品を通じて、自分をあばくことで他をもほじくり返し、その生涯のあいだ、わき見もしないで自分をしらべ、もっとも身近かな一人の人間を見つづけてきたのである。(室生犀星「杏っ子」後書、1957年) |
で、掘り抜いた先は、究極的には子どものころ住んでいた路地の奥なんじゃないかね、ヒトはみな。 |
詩の擁護又は何故小説はつまらないか 谷川俊太郎 ーー「詩は何もしないことで忙しいのです」ビリー・コリンズ(小泉純一訳) |
初雪の朝のようなメモ帳の白い画面を MS明朝の足跡で蹴散らしていくのは私じゃない そんなのは小説のやること 詩しか書けなくてほんとによかった |
小説は真剣に悩んでいるらしい 女に買ったばかりの無印のバッグをもたせようか それとも母の遺品のグッチのバッグをもたせようか そこから際限のない物語が始まるんだ こんぐらかった抑圧と愛と憎しみの やれやれ |
詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ 小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る のも分からないではないけれど |
小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で 抜け穴を掘らせようとする だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、 子どものころ住んでいた路地の奥さ そこにのほほんと詩が立ってるってわけ 柿の木なんぞといっしょに ごめんね |
人間の業を描くのが小説の仕事 人間に野放図な喜びをもたらすのが詩の仕事 |
小説の歩く道は曲がりくねって世間に通じ 詩がスキップする道は真っ直ぐ地平を越えて行く どっちも飢えた子どもを腹いっぱいにしてやれないが 少なくとも詩は世界を怨んじゃいない そよ風の幸せが腑に落ちているから 言葉を失ってもこわくない |
小説が魂の出口を探して業を煮やしてる間に 宇宙も古靴も区別しない呆けた声で歌いながら 祖霊に口伝えされた調べに乗って詩は晴れ晴れとワープする 人類が亡びないですむアサッテの方角へ |
小説も詩も、肝心なのは生垣に穴をあけることだろうよ、とくに路地の奥の生垣の。そうであったらボクはどっちでもいいね。気分によってときに小説や随想、ときに詩だな。 |
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人生の通常の経験の関係の世界はあまりいろいろのものが繁茂してゐて永遠をみることが出来ない。それで幾分その樹を切りとるか、また生垣に穴をあけなければ永遠の世界を眺めることが出来ない。要するに通常の人生の関係を少しでも動かし移転しなければ、そのままの関係の状態では永遠をみることが出来ない。(西脇順三郎「あむばるわりあ あとがき(詩情)」) |
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女から 生垣へ 投げられた抛物線は 美しい人間の孤独へ憧れる人間の 生命線である ーー「キャサリン」『近代の寓話』 |
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ああ すべては流れている またすべては流れている ああ また生垣の後に 女の音がする ーー「野原の夢」『禮記』 |
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生垣にはグミ、サンショウ、マサギ が渾沌として青黒い光りを出している この小径は地獄へ行く昔の道 プロセルピナを生垣の割目から見る 偉大なたかまるしりをつき出して 接木をしている ーー「夏(失われたりんぼくの実)」
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古井由吉も次のように言ってるんだからシッカリわかってた筈だよ、 |
一般的に、エロスとは性欲や快楽を指す言葉かもしれません。が、僕の追求するエロスは、そんな甘いものじゃない。人間が生きながらえるための根源的な欲求のことです。〔・・・〕 歳をとりますとね、エロスは深まります。死が近くにあるわけですから。子供の頃、よく不思議な夢の話を聞いた。暗いトンネルの出口の向こうに、お花畑が広がっている。人が生死の境にいる時、そういう夢を見る、と。( 古井由吉「サライ」2011年3月号) |
ラカンが《死は愛である[la mort, c'est l'amour.]》(Lacan, L'Étourdit E475, 1970)と言っているのはこの意味だ。
「暗いトンネルの出口の向こう」ってのはもちろん谷川の「子どものころ住んでいた路地の奥」だよ。
フロイト自身、ひょっとしてシェイクスピアから学んだんじゃないかね、 |
ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女、パートナー、破壊する女 [Die Gebärerin, die Genossin und die Verderberin]である。それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。 |
すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ恋人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地[Die Mutter selbst, die Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewählt, und zuletzt die Mutter Erde]である。 そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神[die dritte der Schicksalsfrauen, die schweigsame Todesgöttin]のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年) |
蚊居肢子は母なる大地いじりしてんだ、つまり杏の庭いじりをね。とくに還暦すぎてから比較的熱心に。
おれ地面掘るよ
土の匂いだよ
水もじゅくじゅく湧いてくるよ
おれに土かけてくれよお
草も葉っぱも虫もいっしょくたによお
でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ
笑っちゃうよ
おれ死にてえのかなあ
ーー谷川俊太郎「なんでもおまんこ」