ぼくは10年ほどぐらい前に精神分析にそれなりにマジで首を突っ込んでーーそれまではフロイトなら『夢解釈』と『快原理の彼岸』程度、ラカンならセミネール1しか読んでいず、ひどく荒いジジェク程度でお茶を濁していたーー、ある意味で詩を失ったんだよな、前回の言い方なら、「宙吊り」精神を。
フロイトとともに思い起こさねばならない。芸術の分野では、芸術家は常に分析家に先んじており[ l'artiste toujours le précède] 、精神分析家は芸術家が切り拓いてくれる道において心理学者になることはないのだということを[ il n'a donc pas à faire le psychologue là où l'artiste lui fraie la voie] 。 (ラカン 「マルグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS 」、AE193、1965年) |
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われわれの方法の要点は、他人の異常な心的事象を意識的に観察し、それがそなえている法則を推測し、それを口に出してはっきり表現できるようにするところにある。一方詩人の進む道はおそらくそれとは違っている。彼は自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾け、その可能性に意識的な批判を加えて抑制するかわりに、芸術的な表現をあたえてやる。このようにして作家は、われわれが他人を観察して学ぶこと、すなわちかかる無意識的なものの活動がいかなる法則にしたがっているかということを、自分自身から聞き知るのである。だが彼はそのような法則を口に出していう必要はないし、それらをはっきり認識する必要さえない。 |
Unser Verfahren besteht in der bewußten Beobachtung der abnormen seelischen Vorgänge bei Anderen, um deren Gesetze erraten und aussprechen zu können. Der Dichter geht wohl anders vor; er richtet seine Aufmerksamkeit auf das Unbewußte in seiner eigenen Seele, lauscht den Entwicklungsmöglichkeiten desselben und gestattet ihnen den künstlerischen Ausdruck, anstatt sie mit bewußter Kritik zu unterdrücken. So erfährt er aus sich, was wir bei Anderen erlernen, welchen Gesetzen die Betätigung dieses Unbewußten folgen muß, aber er braucht diese Gesetze nicht auszusprechen, nicht einmal sie klar zu erkennen (フロイト『W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢』第4章、1907年) |
「口に出してはっきり表現できるようにするところにある」とフロイトは言っているが、他人の心理を断言的に言ってしまう傾向が、今のぼくには無きにしもあらずだからな。
だから谷川俊太郎の「もっと滲んで」がこたえるんだよ。
もっと滲んで 谷川俊太郎 |
そんなに笑いながら喋らないでほしいなとぼくは思う こいつは若いころはこんなに笑わなかった たまに笑ってくれると嬉しかったもんだ おまえ今いったいどこにいるつもりなんだい 人と人のつくる網目にすっぽりとはまりこんで いい仕立てのスーツで輪郭もくっきり 昔おまえはもっと滲んでいたよ 雨降りの午後なんかぼうっとかすんでいた 分からないことがいっぱいあるってことがよく分かった |
今おまえは応えてばかりいる 取り囲む人々の善意に満ちて 少しばかり傲慢に笑いながら おまえはいつの間にか愛想のいい本になった みんな我勝ちにおまえを読もうとする でもそこには精密な言葉しかないんだ 青空にも夜の闇にも愛にも犯されず いつか無数の管で医療機器につながれて おまえはこの文明の輝かしい部分品のひとつとなるだろう |