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2023年11月6日月曜日

同情する人間と同情しない人間


以下、いままで何度も引用してきたニーチェの同情、ルソーの同情、フロイトの同情である。ここではコメント抜きで三者のエッセンスと思われる文を列挙する。

◼️ニーチェの同情ーー『曙光』第133番より(パラグラフわけして小題つけた)

無思慮の同情

「もはや私のことを思わない。」――まあ本当に徹底的にとくと考えてもらいたい。眼の前で誰かが水の中に落ちると、たとえそうしたくないにせよ、われわれがそのあとから飛びこむのは、なぜか? 同情のためである。そのときわれわれはもう他人のことだけを思っている。――と無思慮[Gedankenlosigkeit]がいう。誰かが血を吐くと、彼に対して悪意や敵意さえ持っているのに、われわれが苦痛と不快を感じるのは、なぜか? 同情のためである。われわれはその際まさしくもはや自分のことは思っていない。――と無思慮が言う。


無私の同情の嘘

真実は、同情というときーー私は間違ったやり方で通常同情と呼ばれるのが常であるもののことを考えているのだが、――われわれはなるほどもはや意識的にわれわれのことを思っていないけれども、極めて強く無意識的にわれわれのことを思っているのである。ちょうど足がすべったとき、われわれにとって現在意識されていないが、最も目的にかなった反射運動をし、同時に明らかにわれわれの知性全体を使用しているように。


自己の名誉による同情

他人の不幸は、われわれの感情を害する。われわれがそれを助けようとしないなら、それはわれわれの無力を、ことによるとわれわれの卑怯を確認させるであろう。言いかえると、 それはすでにそれ自体で、他人に対するわれわれの名誉の、またはわれわれ自身に対するわれわれの名誉の減少を必然的にともなう。換言すれば、他人の不幸と苦しみの中にはわれわれに対する危険の指示がある。そして人間的な危うさと脆さ一般の目印としてだけでも、それらはわれわれに苦痛を感じさせる。


自己防衛としての同情

われわれは、この種の苦痛と侮辱を拒絶し、同情するという行為によって、それらに報復する。この行為の中には、精巧な自己防衛やあるいは復讐[feine Nothwehr oder auch Rache]さえもありうる。われわれが根底において強くわれわれのことを思うということは、われわれが苦しむもの、窮乏するもの、 悲嘆するものの姿を避けることのできるすべての場合に、われわれの行なう決心からして推測される。


われわれが不幸な人物たちを避けることをしまいと決心するのは、われわれが一層強力なもの、助けるものとしてやって来ることができるとき、喝采を博することの確実であるとき、われわれの幸福の反対のものを感じるのを望むとき、あるいはまたその姿によって退屈から脱出することを期待するときである。


そのような姿を見るときわれわれに加えられ、しかも極めて多種多様でありうる憂苦を同情と名づけることは、誤謬を招く。なぜなら、どんな事情があっても、 それは、われわれの前で苦しんでいる者とは関係がない憂苦であるからである。


快としての同情

しかしわれわれはこの種のことを、決してひとつの動機から行なうのではない。われわれが その際苦しみからの解放を望んでいることが全く確実であるように、われわれが同じ行為において、快の衝動[Antriebe der Lust]に服従することもやはり確実である。――快が生じるのは、われわれの状態の反対のものの姿を見るときである。われわれが望みさえすれば助けうるという考えをもつときである。われわれが助けた場合、賞賛され、感謝されるという思いを抱くときである。行為がうまくゆき、そしてそれが一歩一歩成功するものとして実行者自身を楽しませるかぎり、助けるという行為そのものの中においてである。しかしとくに、われわれの行為が腹立たしい不正を制限する(彼の腹立たしさの爆発だけでも気分をさわやかにする)という感覚の中においてである。


ショーペンハウアーの誤謬

この一切合財に、さらに一層精巧なものがつけ加わると、 「同情」である。――言語はそのひとつの言葉を用いて、何と不格好に、そのように多声的な存在の上に襲いかかることであろう! ――これに反して、苦しみを眺めるときに起きる同情が、その苦しみと同種のものであること、あるいは、同情が苦しみに対して特別に精巧な、透徹した理解をもつこと、この二つのことは、経験と矛盾する。そして同情をほかならぬこの二つの視点で称賛した者は、まさに道徳的なもののこの領域において、十分な経験を欠いていたのである。ショーペンハウアーが同情について報告することのできるすべての信じがたい事柄にもかかわらず、これが私の懐疑である。彼はわれわれをして、彼の大きな新発明品を信じさせようとしている。それによると、同情はーー彼によって極めて不完全な観察がなされ、全く粗悪な記述がなされた、まさにその同情はーー、一切のあらゆる以前の、また将来の道徳的な行為の源泉であるーーしかも彼がはじめて捏造して、 同情になすりつけたほかならぬその能力のためにそうなのである。――


同情をもたない人間の心理

おしまいに、同情をもたない人間は、同情する人間と何で区別されるか? 何よりもまずー ーここでもやはり荒っぽくのべるだけであるがーー同情をもたない人間は、恐怖という刺激されやすい想像力や、危険をかぎつける鋭い能力をもっていない。さらに、何事か起きても、かれらが阻止できるならば、彼らの自惚れはそんなに速やかに傷つけられはしない (彼らの誇りの慎重さは、関係のない事柄に無益な干渉をしないように、彼らに命令する。 それどころか、彼らは自発的に、各人が自分自身を助け、自分自身のトランプで遊ぶことを好むのである)。その上彼らは大てい、同情的な人間よりも、苦痛に堪えることに馴れている。さらに彼ら自身苦しんできたのであるから、他人が苦しむことは、彼らにはそう不公平には思われない。


同情という利己主義

最後に彼らにとっては心の優しい状態は、ちょうど同情する人間にとってストア主義的な無関心の状態が苦痛であるように、苦痛である。彼らはその状態に軽蔑的な言葉を付加し、自分の男らしさと冷たい勇気がそれによって危険にさらされたと思う。 ――彼らは涙を他人の眼からかくし、自己自身に立腹して、それをぬぐう。同情する人間とは別の種類の利己主義である[sie verheimlichen die Thräne vor Anderen und wischen sie ab, unwillig über sich selber. Es ist eine andere Art von Egoisten, als die Mitleidigen]。――しかし彼らを紛れもない意味で悪いと呼び、 同情する人間をよいと呼ぶことは、時をえているひとつの道徳的な流行にほかならない。 ちょうど反対の流行にも時が、しかも長い時があったように! (ニーチェ『曙光』第133番、1881年)



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◼️ルソーの同情

①三つの格率(親切・人間性・共感・慈善をめぐる)

Trois maximes. (la bonté, l'humanité, la commisération, la bienfaisance,)

【第一の格率】:人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。

PREMIÈRE MAXIME 

Il n'est pas dans le cœur humain de se mettre à la place des gens qui sont plus heureux que nous, mais seulement de ceux qui sont plus à plaindre.

【第二の格率】:人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。

DEUXIÈME MAXIME 

On ne plaint jamais dans autrui que les maux dont on ne se croit pas exempt soi-même.

【第三の格率】:他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。

TROISIÈME MAXIME 

La pitié qu'on a du mal d'autrui ne se mesure pas sur la quantité de ce mal, mais sur le sentiment qu'on prête à ceux qui le souffrent.

(ジャン=ジャック・ルソー『エミール』1762年)


②憐れみは苦しんでいる存在に同一化することによって生まれる

私たちはどのようにして憐れみに心を動かされるのであろうか。私たちを自分の外に連れ出して、苦しんでいる存在に同一化することによってである。

Comment nous laissons-nous émouvoir à la pitié ? En nous transportant hors de nous-mêmes ; en nous identifiant avec l'être souffrant.( ジャン=ジャック・ルソー『言語起源論』1781年)



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◼️フロイトの同情

①同情は同一化によって生まれる(同一化しなかったら同情は生じない)

同情は同一化によって生まれる[das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung]〔・・・〕

一人の自我が、他人の自我にある点で重要な類似をみつけたとき、われわれの例でいえば、同様な感情を用意している点で意味ふかい類似をみとめたとき、それにつづいてこの点で同一化が形成される[ Das eine Ich hat am anderen eine bedeutsame Analogie in einem Punkte wahrgenommen, in unserem Beispiel in der gleichen Gefühlsbereitschaft, es bildet sich daraufhin eine Identifizierung in diesem Punkte]〔・・・〕

第一に、同一化は対象にたいする感情結合の根源的な形式である[daß erstens die Identifizierung die ursprünglichste Form der Gefühlsbindung an ein Objekt ist]。


第二に、退行の道をたどって、同一化は、いわば対象を自我に取り入れることによって、リビドー的対象結合の代理物になる[zweitens, daß sie auf regressivem Wege zum Ersatz für eine libidinöse Objektbindung wird, gleichsam durch Introjektion des Objekts ins Ich]。


第三に、同一化は性欲動の対象ではない他人との、あらたにみつけた共通点のあるたびごとに生じる。この共通性が、重大なものであればあるほど、この部分的な同一化は、ますます効果のあるものになり、それは新たな結合の端緒を表すようになる[und daß sie drittens bei jeder neu wahrgenommenen Gemeinsamkeit mit einer Person, die nicht Objekt der Sexualtriebe ist, entstehen kann. Je bedeutsamer diese Gemeinsamkeit ist, desto erfolgreicher muß diese partielle Identifizierung werden können und so dem Anfang einer neuen Bindung entsprechen ]。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章「同一化」1921年)



②同一化の三症例

やや複雑な関係の中から、神経症の症状形成における同一化[die Identifizierung bei einer neurotischen Symptombildung]をとり出してみよう。いまここでは、幼い少女を例にとってみようとおもうが、彼女は母親とおなじ苦痛な症状、たとえば母親とおなじような苦しげな咳に悩んでいる。この症状は、さまざまな起こり方をする。この同一化はエディプスコンプレクスから来ることもありうる[Entweder ist die Identifizierung dieselbe aus dem Ödipuskomplex]。この事例では、同一化は母の場を占めようとする少女における敵意[ein feindseliges Ersetzenwollen der Mutter]を示す。そしてこの症状は父への対象愛[die Objektliebe zum Vater]を表現している。この症状は、少女の罪意識の下にある母の代理物の実現である[es realisiert die Ersetzung der Mutter unter dem Einfluß des Schuldbewußtseins]。つまり「お前は母親になろうと思った以上、今はせめて苦しむのだ」と。これはヒステリー症状形成の完璧なメカニズム[der komplette Mechanismus der hysterischen Symptombildung]である。

また一方で、その症状は愛している人の症状と同じ場合もある。例えば「あるヒステリーの分析の断片』の事例では、ドラは父親の咳を真似た[Dora im ›Bruchstück einer Hysterie-Analyse‹ den Husten des Vaters imitiert]。そこでわれわれは、この間の事情を次のように述べることができよう。 同一化は対象選択のかわりに現われ、対象選択は同一化に退行したと[die Identifizierung sei an Stelle der Objektwahl getreten, die Objektwahl sei zur Identifizierung regrediert. ]。


同一化は感情結合のもっとも初期のもっとも根源的な形式である。症状形成の条件の下、つまり抑圧と無意識のメカニズムの支配の下では、対象選択が同一化に退却する、つまり自我は対象の特性を身につける[die Objektwahl wieder zur Identifizierung wird, also das Ich die Eigenschaften des Objektes an sich nimmt]ことはしばしば起こる。


同一化において、自我がときに好まない人物を模倣したり、ときに愛している人物を模倣することも注目に値する。どちらの場合も同一化は部分的で極度に限定されたものであり、対象人物のたった一つの特徴(唯一の徴[einen einzigen Zug])を借りていることもわれわれを驚かす。

Bemerkenswert ist es, daß das Ich bei diesen Identifizierungen das eine Mal die ungeliebte, das andere Mal aber die geliebte Person kopiert. Es muß uns auch auffallen, daß beide Male die Identifizierung eine partielle, höchst beschränkte ist, nur einen einzigen Zug von der Objektperson entlehnt.


症状形成の第三の、とくにひんぱんで重要な実例は、同一化が模倣した人物との対象関係をまったく度外視する場合である。たとえば寄宿舎の一人の少女が秘密の恋人から手紙を受けとり、その手紙が彼女の嫉妬を刺激した結果、ヒステリーの発作[hysterischen Anfall]で反応するとき、それを知った彼女の二、三の女友達は、いわば心理的伝染[psychischen Infektion]によっておなじ発作を起こすだろう。このメカニズムは、おなじ状態に身を置く能力、または置こうとする欲求にもとづく同一化の機制である[Der Mechanismus ist der der Identifizierung auf Grund des sich in dieselbe Lage Versetzenkönnens oder Versetzenwollens. ]。その女友達たちも秘密の恋愛関係をもちたいとおもい、罪意識の中で、その恋愛につきまとう苦悩をも引き受けるのである。

彼女たちは同情からその症状を自分たちのものにしているのだ、と主張することは正しくないだろう。その反対に、同情は同一化によって生まれる[das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung]。その証拠に、このような伝染ないし模倣は、寄宿生の場合よりも、相互のあいだた、ずっとわずかしか一時の共感があるにすぎない事情の中でも行なわれるからである。

(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)



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※附記

ニーチェがトゥリンにあるホテルから外出する。向かいに馬と、馬を鞭打っている馭者を見る。ニーチェは馬に近寄ると、馭者の見ているところで馬の首を抱き、涙を流す。


それは一八八九年のことで、ニーチェはもう人から遠ざかっていた。別のことばでいえば、それはちょうど彼の心の病がおこったときだった。しかし、それだからこそ、彼の態度はとても広い意味を持っているように、私には思える。ニーチェはデカルトを許してもらうために馬のところに来た。彼の狂気(すなわち人類との決別)は馬に涙を流す瞬間から始まっている。


そして、私が好きなのはこのニーチェなのだ、ちょうど死の病にかかった犬の頭を膝にのせているテレザが私が好きなように私には両者が並んでいるのが見える。二人は人類が歩を進める「自然の所有者」の道から、退きつつある。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』「軽さと重さ」)


写真はいわば、穏やかな、つつましい、分裂した幻覚である。一方においては、《それはそこにはない》が、しかし他方においては、《それは確かにそこにあった》。写真は現実を擦り写しにした狂気の映像なのである。…写真と狂気と、それに名前がよくわからないある何ものかとのあいだには、ある種のつながりがある、ということを私は理解したと思った。私はその何ものかをとりあえず愛の苦悩と呼んでみた。しかしながら…その何ものかは、恋愛感情よりももっと豊かな感情のうねりだった。写真によって呼び覚まされる愛のうちには、「憐れみ」という奇妙に古くさい名前をもった、もう一つの調べが聞き取れた。私は最後にもう一度、私を《突き刺した》いくつかの映像、…を思い浮かべてみた。それらの映像のどれをとっても、まちがいなく私は、そこに写っているものの非現実性を飛び越え、狂ったようにその情景、その映像のなかへ入っていって、すでに死んでしまったもの、まさに死なんとしているものを胸に抱きしめたのだ。ちょうどニーチェが、1889年1月3日、虐待されている馬を見て、「憐れみ」のために気が狂い、泣きながら馬の首に抱きついたのと同じように。comme le fit Nietzsche, lorsque le 3 janvier 1889, il se jeta en pleurant au cou d’un cheval martyrisé : devenu fou pour cause de Pitié(ロラン・バルト『明るい部屋』).


ニーチェを読むと、彼はこのキリスト教的美徳〔すなわち同情〕を口を極めて排撃しているけれど、それはつまりは、彼がどんなに自分の中のその能力のために悩み苦しんだかの証拠に他ならない。(吉田秀和ーー 『ニーチェ――どうして同情してはいけないのか』(神崎繁)よりの孫引き)



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隠遁者[Einsiedler]は、かつて哲学者ーー哲学者は常にまず隠遁者であったとすればーーが自己の本来の究極の見解を著書のうちに表現した、とは信じない。書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか[schreibt man nicht gerade Buecher, um zu verbergen, was man bei sich birgt? ]。実に彼は次のように疑うであろう。およそ哲学者は"究極的かつ本来的な[letzte und eigentliche]"見解をもちうるのか、哲学者にとってあらゆる洞窟の背後に[hinter jeder Hoehle ]、なお一層深い洞窟が存し、存しなければならないのではないか、表層の彼岸に[ueber einer Oberflaeche]、より広況な、より未知の、より豊かな世界があり、あらゆる根拠[Grund]の背後に、あらゆる“根拠づけ[Begrúndung]”の背後に一つの深淵[ein Abgrund ]があるのではないか、と。〔・・・〕かつまた次のことは疑うべき何ものかである。すなわち「哲学はさらに一つの哲学を隠している。あらゆる見解もまた一つの隠し場であり、あらゆる言葉もまた一つの仮面である[Jede Philosophie verbirgt auch eine Philosophie; jede Meinung ist auch ein Versteck, jedes Wort auch eine Maske.]」(ニーチェ『善悪の彼岸』289番、1886年)