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2024年1月21日日曜日

上川陽子さんの「美」

 

キミたちは怒ったり恥ずかしいと思わないんだよな、お上のやることに従順なのかそれとも無関心なのかは知らないが。

例えば一見「上品」そうに見える上川陽子さんの最近の振舞いというのがある。




こうやって怒ったり恥を感じたりしているのはほんの一部の人だけだな。和製ヌーランドになりうる可能性は充分にあるヒトなのにさ。





上川陽子さんの経歴を見ると、米国ネオコン文化を「誠実に」学んだヒトのようだね。


Wikiを見るとこうあるけどね、


静岡県静岡市生まれ。静岡雙葉中学校・高等学校卒業後、東京大学文科三類に入学し、東京大学教養学部教養学科(国際関係論専攻)卒業。カトリック教徒。

1977年4月三菱総合研究所に入所し、研究員を務める。フルブライト奨学生としてアメリカ合衆国のハーバード大学ケネディ・スクールで学び、1988年政治行政学修士号を取得した。その後はアメリカ合衆国議会のマックス・ボーカス上院議員(民主党)の政策スタッフを務める。同年12月、株式会社グローバリンク総合研究所代表取締役に就任。


聡明かつ野心家のお嬢さんだったんだろうなあ、こんな写真も落ちているが、惜しまれるなあ、熱心さゆえにドップリ洗脳されてしまって。






教育は常に、シニフィアンを送り届ける過程、つまり教師から生徒へと、知を受け渡す過程である。この受け渡しは、陽性転移があるという条件の下でのみ効果的である。人は愛する場所で学ぶ。

これは完全にフロイト派のタームで理解できる。主体は大他者のシニフィアンに自らを同一化する。すなわち、この大他者に陽性転移した条件の下に、この大他者によって与えられた知に同一化する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Teaching and Psychoanalysis: A necessary impossibility. 2011年)

コミュニケーションとしての言語の機能…。この機能で重要なのは、メッセージというよりも、むしろ送り手と受け手の関係である。この関係によって、メッセージがどのように受け取られるか、あるいは受け取られないかが決まり、より具体的には、メッセージが「取り込まれ」、保持されるか、あるいは送り手の外に戻されるかが決まる。

教育はこの典型的な例である。人は「学ぶ」、つまり、肯定的な伝達関係においてシニフィアンを取り込むのである。これは、実際に教えられることの正確さや不正確さよりも、はるかに決定的な重要性を持っている。その結果、すべての教育は、洗脳の機会となる危険性をはらんでいる[all education runs the risk of turning into an opportunity for indoctrination.](Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders, 2004)


なにはともあれ、上川陽子さんは、そのネオコン洗脳頭にて、何の疑いもなく自信をもって振舞っている信念のヒトのように見えて、とても「美しい」よ。


信念は牢獄である[Überzeugungen sind Gefängnisse]。それは十分遠くを見ることがない、それはおのれの足下を見おろすことがない。しかし価値と無価値に関して見解をのべうるためには、五百の信念をおのれの足下に見おろされなければならない、 ーーおのれの背後にだ・・・〔・・・〕


信念の人は信念のうちにおのれの脊椎をもっている。多くの事物を見ないということ、公平である点は一点もないということ、徹底的に党派的であるということ[Partei sein durch und durch]、すべての価値において融通がきかない光学[eine strenge und notwendige Optik in allen Werten] をしかもっていないということ。このことのみが、そうした種類の人間が総じて生きながらえていることの条件である。〔・・・〕


狂信家は絵のごとく美しい、人間どもは、根拠に耳をかたむけるより身振りを眺めることを喜ぶものである[die Menschheit sieht Gebärden lieber, als daß sie Gründe hört...](ニーチェ『反キリスト者』第54節、1888年)