このブログを検索

2024年3月25日月曜日

プーチンはメドベージェフの顰め面

 


ドミートリー・メドベージェフ 

「皆が私に尋ねる。どうするのかと。

彼らを捕まえた。よくやった。

殺すべきか?当然だ。そうなるだろう。

だが、関係者全員を殺すことの方がはるかに重要だ。全員だ。金を払った者、同情した者、助けた者。皆殺しにする。」

DMITRY MEDVEDEV:

"Everyone is asking me. What to do?

They were caught. Good job to all who were involved.

Should they be killed? Yes. And it will happen.

But it's much more important to kill all those involved.

Everyone.

Those who paid, those who sympathized, those who helped.

Kill them all."

ーーMessage posted by Dmitry Medvedev, Deputy Chairman of the Security Council of the Russian Federation, on his Telegram channel on March 25, 2024.

Заместитель председателя Совбеза России Дмитрий Медведев:

 Меня спрашивают все. Что делать?  Их поймали.

 Молодцы все, кто ловил. 

 Их надо убить? Надо. И это будет.

  Но гораздо важнее убить всех причастных. Всех. Кто платил, кто сочувствовал, кто помогал. Убить их всех.





しかしロシアにはメドベージェフ精神がウヨウヨいるからな、「優し過ぎる」ーー自制心のあり過ぎるーープーチンでまだもっているんだよ、世界は。







ここで白状させていただくが、蚊居肢子の精神はプーチン系だとしても、ワタクシの精神はメドベージェフ系なんだ。このところ日々両者が葛藤しててさ、自我分裂が激しいんだ。



欲動要求と現実の抗議のあいだに葛藤があり、この二つの相反する反応が自我分裂の核として居残っている。Es ist also ein Konflikt zwischen dem Anspruch des Triebes und dem Einspruch der Realität. …Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen.  (フロイト『防衛過程における自我分裂』1939年)

欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)


要するに蚊居肢子はワタクシの顰め面なんだ。

じつは、この世界は思考を支える幻想でしかない。それもひとつの「現実 réalité」には違いないかもしれないが、リアルの顰め面[grimace du réel] として理解されるべき現実である。

…alors qu'il(monde) n'est que le fantasme dont se soutient une pensée, « réalité » sans doute, mais à entendre comme grimace du réel.(ラカン、テレヴィジョン Télévision、AE512、Noël 1973)

欲動蠢動、この蠢動は刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである [la Triebregung …Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute](ラカン, S10, 14  Novembre  1962)


おそらくプーチンだってメドベージェフの顰め面に過ぎないんじゃないか、つまりエスの欲動蠢動[Triebregung des Es]のシカメッ面・・・


自我の、エスにたいする関係は、奔馬を統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志[Willen des Es] を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。

(フロイト『自我とエス』第2章、1923年)



・・・などというのは精神分析など引用しなくても昔からある話だが。






◼️プラトン『パイドロス』

246A-B

魂の似すがたを、翼を持った一組の馬と、その手綱をとる翼を持った馭者とが、一体になってはたらく力であるというふうに、思いうかべよう――神々の場合は、その馬と馭者とは、それ自身の性質も、またその血筋からいっても、すべて善きものばかりであるが、神以外のものにおいては、善いものと悪いものとがまじり合っている。そして、われわれ人間の場合、まず第一に、馭者が手綱をとるのは二頭の馬であること、しかも次に、彼の一頭の馬のほうは、資質も血すじも、美しく善い馬であるけれども、もう一頭のほうは、資質も血すじもこれと反対の性格であること、これらの理由によって、われわれ人間にあっては、馭者の仕事はどうしても困難となり、厄介なものとならざるをえないのである。


おい、祈れよ、






プーチンにじゃない、キミたちに言ってんだ。