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2024年8月15日木曜日

権力のフェティシズム

  

この人が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下として振舞うからでしかない。ところが彼らは逆に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと信じているのだ[Dieser Mensch ist z.B. nur König, weil sich andre Menschen als Untertanen zu ihm verhalten. Sie glauben umgekehrt Untertanen zu sein, weil er König ist.](マルクス『資本論』第一巻第一篇第三章註)


これは次の文の言い換えである。

一商品は、他の諸商品が自分らの価値を全面的にこの一商品で表わすがゆえに、はじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるがゆえに、他の諸商品が自分らの価値を一般的にこの一商品で表わす、というように見えるのだ。Eine Ware scheint nicht erst Geld zu werden, weil die andren Waren allseitig ihre Werte in ihr darstellen, sondern sie scheinen umgekehrt allgemein ihre Werte in ihr darzustellen, weil sie Geld ist. (『資本論』第一巻第一篇第二章)

貨幣フェティッシュの謎は、ただ、商品フェティッシュの謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない[Das Rätsel des Geldfetischs ist daher nur das sichtbar gewordne, die Augen blendende Rätsei des Warenfetischs.] (マルクス『資本論』第一巻第ニ章「交換過程」)


つまりーー《すべての商品と関係しあう一中心としての商品、すなわち貨幣》(柄谷行人『マルクスとその可能性の中心』1978年)、これが貨幣のフェティシズムである。


この貨幣を王と例えるマルクスから、Enrique Dusselは「権力のフェティシズム」という表現を導き出している。貨幣という王のポジションに置かれた権力者に対して周りの者が臣下として振る舞っているだけにもかかわらず、自らを真の権力のある者だと信じ込むようになるということだ。


リーダーによる権力のフェティシズムは、共同体を弱体化させ、敵に対して無防備にする。

The fetishization of power by leaders weakens the community and leaves it defenseless against its enemies.(Enrique Dussel, Twenty Theses on Politics, 2006)


とはいえ、このフェティシズムは「王」のポジションに置かれた者なら、その強度の差はあるにしろ、通常は免れ難い。これは芸術でも同じである。

私は真剣に信じている、絵画をつくるのは、アーティストと同じくらい、観客だと。Je crois sincèrement que le tableau est autant fait par le regardeur que par l'artiste.(Marcel Duchamp en 1960


このデュシャンの発言は「アートがミュージアムにあるのではなく、ミュージアムにあるからアートとなる」と言い換えうる。

対象から発するアウラは、対象の直接的な特性ではなく、それが占める場である。この場への依存の古典的な例は、もちろん、マルセル・デュシャンのよく知られた小便器(泉)ーー小便器自体が展示されることによってアートの対象となったものーーである。


デュシャンの功績は、たんに、アート作品においてなにが重要とされるか(小便器でさえも)の範囲を拡げたことになるのではない。彼がなしたことはーーそのような普遍化の形式的条件としてーー、対象とそれが占める(構造的な)場のあいだの区別の導入である。すなわち小便器をアート作品とするのは、それに内在する特性ではなく、それが占める場(アートギャラリイ)なのである。あるいはマルクスが遠い昔に商品フェティシズムに関して言ったように、「 ある人間が王であるのは、ただ他の人間が彼に対して臣下として相対するからである。彼らは、逆に彼が王だから、自分たちが臣下でなければならぬと信じている」ということである。


日常生活において、われわれはこの種の物象化 reification ーー事実上「フェティシズム化」:引用者ーーの犠牲者である。つまり、われわれは純粋な形式的あるいは構造的決定性を対象の直接の特性として誤認してしまうのである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012年)





………………


なお貨幣のフェティシズムの別名は剰余価値である。

くりかえしていうが、資本とは G - W - G' (G+⊿G) という運動である。通俗経済学においては、資本とは資金のことである。しかし、マルクスにとって、資本とは、貨幣が、生産施設・原料・労働力、その生産物、さらに貨幣へ、と「変態していく」過程の総体を意味するのである。この変態が完成されないならば、つまり、資本が自己増殖を完成しないならば、それは資本ではなくなる。しかし、この変態の過程は、 他方で商品流通としてあらわれるため、そこに隠されてしまう。したがって、古典派や新古典派経済学においては、資本の自己増殖運動は、 商品の流通あるいは財の生産 = 消費のなかに解消されてしまう。 産業資本のイデオローグは「資本主義」という言葉を嫌って 「市場経済」という言葉を使う。 彼らはそれによって、あたかも人々が市場で貨幣を通して物を交換しあっているかのように表象する。この概念は、市場での交換が同時に資本の蓄積運動であることを隠蔽するものである。そして、彼らは市場経済が混乱するとき、それをもたらしたものとして投機的な金融資本を糾弾したりさえする、まるで市場経済が資本の蓄積運動の場ではないかのように。


しかし、財の生産と消費として見える経済現象には、その裏面において、根本的にそれとは異質な或る倒錯した志向がある。 G′(G+⊿G) を求めること、それがマルクスのいう貨幣のフェティシズムにほかならない。マルクスはそれを商品のフェティシズムとして見た。それは、すでに古典経済学者が重商主義者の抱いた貨幣のフェティシズムを批判していたからであり、さらに、各商品に価値が内在するという古典経済学の見方にこそ、貨幣のフェティシズムが暗黙に生き延びていたからである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部 第2章「綜合の危機」2001年)


・・・この過程の全形態は、貨幣 - 商品 - 貨幣'[G - W - G' ]である。G' = G +⊿G であり、最初の額が増大したもの、増加分が加算されたものである。この、最初の価値を越える、増加分または過剰分を、私は"剰余価値"と呼ぶ。この独特な経過で増大した価値は、流通内において、存続するばかりでなく、その価値を変貌させ、剰余価値または自己増殖を加える。この運動こそ、貨幣の資本への変換である。

Die vollständige Form dieses Prozesses ist daher G - W - G', wo G' = G+⊿G, d.h. gleich der ursprünglich vorgeschossenen Geldsumme plus einem Inkrement. Dieses Inkrement oder den Überschuß über den ursprünglichen Wert nenne ich - Mehrwert (surplus value). Der ursprünglich vorgeschoßne Wert erhält sich daher nicht nur in der Zirkulation, sondern in ihr verändert er seine Wertgröße, setzt einen Mehrwert zu oder verwertet sich. Und diese Bewegung verwandelt ihn in Kapital. (マルクス『資本論』第一篇第二章第一節「資本の一般的形態 Die allgemeine Formel des Kapitals」)


さらにこの剰余価値がラカンの剰余享楽としての対象aである(ラカンの対象aには享楽自体としての対象aもあるので注意)。

私が対象a[剰余享楽]と呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年)

剰余価値、それはマルクス的快、マルクスの剰余享楽である[ La Mehrwert, c'est la Marxlust, le plus-de-jouir de Marx. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)



剰余享楽は享楽断念あるいは享楽喪失に伴う反応物であり、フロイトの「快の獲得」と等価である。これが上のフェティッシュにほかならない。

対象aの用語が導入されるのは、享楽断念の機能に関する言説の中でである。言説の影響下でのこの断念の機能としての剰余享楽は、対象aにその場所を与える。

C'est dans le discours sur la fonction de la renonciation à la jouissance que s'introduit le terme de l'objet(a).  Le plus-de-jouir comme fonction de cette renonciation sous l'effet du discours, voilà qui donne sa place à l'objet(a).   

. (Lacan, S16, 13  Novembre  1968)

剰余享楽は享楽に反応するのではなく享楽の喪失に反応する。

Le plus-de-jouir est ce qui répond, non pas à la jouissance, mais à la perte de jouissance (Lacan, S16, 15  Janvier  1969)

フロイトの快の獲得[Lustgewinn]、それはまったく明瞭に、私の「剰余享楽 」である。[Lustgewinn… à savoir, tout simplement mon « plus-de jouir ». ](Lacan, S21, 20 Novembre 1973




そしてフロイトの「快の獲得」は欲動断念にともなう代理満足であり、妥協の症状である。

欲動断念は、避け難い不快な結果のほかに、自我に、ひとつの快の獲得を、言うならば代理満足をも齎す[der Triebverzicht…Er bringt außer der unvermeidlichen Unlustfolge dem Ich auch einen Lustgewinn, eine Ersatzbefriedigung gleichsam.](フロイト『モーセと一神教』3.2.4  Triebverzicht、1939年)

症状は妥協の結果であり代理満足だが、自我の抵抗によって歪曲され、その目標から逸脱している[die Symptome, die also Kompromißergebnisse waren, zwar Ersatzbefriedigungen, aber doch entstellt und von ihrem Ziele abgelenkt durch den Widerstand des Ichs.] (フロイト『自己を語る』第3章、1925年)


したがってラカンが次に「症状概念」というとき「フェティッシュ概念」を意味する。

症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、…マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。

la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.(Lacan, S18, 16 Juin 1971)



……………………



※附記


確認しておけば、剰余享楽は享楽の穴の穴埋めであり、この両者ともに対象aである。

装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)


ーー《ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。対象aは穴と穴埋めなのである[petit a est …le trou et le bouchon]》(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要)


そして後者の穴埋めの対象a(剰余享楽)がフェティッシュにほかならない。

我々はフェティッシュの対象を対象aにて示す[l'objet fétiche, nous le représentons par petit a. ](J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)


ラカンには幻想の式がある。

$ ◊ a は幻想の式である[ $ ◊ a formule du fantasme],(Lacan, S10, 05  Décembre  1962)


この左側の主体$は穴であり、右側のaが穴埋めとしてのフェティッシュである。

現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet]. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)

幻想が主体にとって根源的な場をとるなら、その理由は主体の穴を穴埋めするためである。[Si le fantasme prend une place fondamentale pour le sujet, c'est qu'il est appelé à combler le trou du sujet ]  (J.-A. Miller, DU SYMPTÔME AU FANTASME, ET RETOUR, 8 décembre 1982)


つまり次のようになる。


そして中央の菱形紋は次のような回転運動を示している。



この意味はフェティッシュの穴埋めは十分には出来ず、無限の反復運動があるということである。


さらにこの幻想の式[$ ◊ a]における「幻想」は、ラカンにとって「現実」を意味する。

現実はない。現実は幻想によって構成されている[il n'y a pas de réalité.La réalité n'est constituée que par le fantasme](Lacan, S25, 20 Décembre 1977)

じつは、この世界は思考を支える幻想でしかない。それもひとつの「現実」には違いないかもしれないが、現実界の顰め面[grimace du réel]として理解されるべき現実である[alors qu'il(monde) n'est que le fantasme dont se soutient une pensée, « réalité » sans doute, mais à entendre comme grimace du réel.](Lacan, Télévision, AE512, Noël 1973)


かつまたーー、


ラカンの主体はフロイトの自我分裂を基盤としている[Le sujet lacanien se fonde dans cette « Ichspaltung » freudienne.  ](Christian Hoffmann, Pas de clinique sans sujet, 2012)


自我分裂の事実は、個人の心的生に現前している二つの異なった態度に関わり、それは互いに対立し独立したものであり、神経症の普遍的特徴である。もっとも一方の態度は自我に属し、もう一方はエスへと抑圧されている。

Die Tatsachen der Ichspaltung, …Dass in Bezug auf ein bestimmtes Verhalten zwei verschiedene Ein-stellungen im Seelenleben der Person bestehen, einander entgegengesetzt und unabhängig von einander, ist ja ein allgemeiner Charakter der Neurosen, nur dass dann die eine dem Ich angehört, die gegensätzliche als verdrängt dem Es. (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


フェティシズムが自我分裂に関して例外的な事例を現していると考えてはならない。Man darf nicht glauben, daß der Fetischismus ein Ausnahmefall in bezug auf die Ichspaltung darstellt〔・・・〕


幼児の自我は、現実世界の支配の下、抑圧と呼ばれるものによって不快な欲動要求を払い除けようとする。Wir greifen auf die Angabe zurück, dass das kindliche Ich unter der Herrschaft der Real weit unliebsame Triebansprüche durch die sogenannten Verdrängungen erledigt.

我々は今、さらなる主張にてこれを補足しよう。生の同時期のあいだに、自我はしばしば多くの場合、苦しみを与える外部世界から或る要求を払い除けるポジションのなかに自らを見出だす。そして現実からのこの要求の知をもたらす感覚を否認の手段によって影響を与えようとする。この種の否認はとてもしばしば起こり、フェティシストだけではない。

Wir ergänzen sie jetzt durch die weitere Feststellung, dass das* Ich in der gleichen Lebensperiode oft genug in die Lage kommt, sich einer peinlich empfundenen Zumutung der Aussenwelt zu erwehren, was durch die Verleugnung der Wahrnehmungen geschieht, die von diesem Anspruch der Realität Kenntnis geben. Solche Verleugnungen fallen sehr häufig vor, nicht nur bei Fetischisten, (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


以上、フロイト・ラカンにおいて現実はフェティシズムである。

最後にミシェル ・レリスのジャコメッティ論から次の文を掲げておこう。


フェティシズムは、最古代には、われわれ人間存在の基盤であった[le fétichisme qui, comme aux temps les plus anciens, reste à la base de notre existence humaine] (ミシェル・レリス Michel Leiris, « Alberto Giacometti », ドキュマンDocuments, n°4, sept. 1929)




・・・というわけで、「権力のフェティシズム」のみについて記すつもりだったんだが、補足してたら話がだいぶ逸れちまった。ま、いいさ、題はそのままにしとくよ。


題なんかどうだっていいよ

詩に題をつけるなんて俗物根性だな

ぼくはもちろん俗物だけど

今は題をつける暇なんかないよ


題をつけるならすべてとつけるさ

でなけりゃこんなところだ今のところとか

庭につつじが咲いていやがってね

これは考えなしに満開だからきれいなのさ

だからつつじって題もないだろう


つつじのこと書いてても

頭にゃ他の事が浮かんでるよ

ひどい日本語がいっぱいさ

つつじだけ無関係ならいいんだけど


魂はひとつっきりなんでね



ーー谷川俊太郎『夜中に台所でばくはきみに話しかけたかった』9