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2024年8月14日水曜日

「フェティッシュの問題について、もっと踏み込んで書かないと」(柄谷行人)

 

83歳の柄谷行人が、《いやいや、まだ足りない。まだ書かねばいかん。Dについても、もっと踏み込んで書かないと。僕は今、新しい本に取り組んでいます。 “力”の問題についてです》と言ってるね。


◾️理論的な行き詰まりで神秘主義に接近 タイガーマスクで近所を歩き回った:

私の謎 柄谷行人回想録⑰ 2024.08.06

――柄谷さんが言ってきたような、ネーション(交換様式A)、国家(B)、資本(C)の結合体を維持したままでは、世界戦争に至るということですね。そこで、新たな交換様式Dを考える必要がある、と。


柄谷 そうです。僕はサイードのように、霊的なものについては考えない、そこに現実性を認めない、ということはできない。 “あの世”とか“霊”とか言うと、いかがわしいと思われるでしょ。現実逃避だとか、オカルト的だとか。事実、そういう場合も多い。だけど、現に霊的な力が働いているんだから、しょうがない。むしろ、その力を見なければ現実を理解できない。だから、 “霊の力”としか言いようがないものについては、はっきりそう言うことにしたんです。


書き終わった頃に、ロシアとウクライナの問題が起きて、去年からはパレスチナも大変なことになっている。中国や台湾の問題もある。もういっぺんに出てきたでしょう。世界中どこもまともじゃない。こんなに脆いものだったのか、っていうのは、やっぱりすごく思いますよね。

他方で、僕は交換様式を考えるなかで、こうなることは分かってもいた。このまま資本-ネーション-国家の体制でやっていたら、地球環境ひとつとっても、持つわけない。いろいろな人がひっきりなしに、さまざまなオルタナティブや新しいヴィジョンを提唱しているけれど、僕から見たら全然オルタナティブじゃない。資本-ネーション-国家の永遠性を当然のこととしたうえで、その範囲でできることをやろうとしているだけだよ。もしくは、その中にいることにすら気づかないで、勝手に都合のいい世界を空想しているだけ。本当のオルタナティブは、むしろ世界戦争によって出てくるかもしれないけど――要するにそうせざるをえないところに追い込まれて――そんなことは望ましいわけじゃない。望ましいわけがない。


――だからこそ、少しでも早く『力と交換様式』を書き上げなくてはならなかったということでしょうか。

柄谷 いやいや、まだ足りない。まだ書かねばいかん。Dについても、もっと踏み込んで書かないと。僕は今、新しい本に取り組んでいます。 “力”の問題についてです。ただ、今度の本は、体系的な書き方、理論的に緻密な書き方ではなく、もっと自由でストレートな書き方になると思います。



ちょっと感動的だな、「“力”の問題について、もっと踏み込んで書かないと」とは。すなわち「フェティッシュの問題」についてだ。



……問題は、この「力」 (交換価値)がどこから来るのか、ということです。マルクスはそれを、商品に付着する霊的な力として見出した。つまり、物神(フェティシュ)として。このことは、たんに冒頭で述べられた認識にとどまるものではありません。彼は『資本論』で、この商品物神が貨幣物神、資本物神に発展し、社会構成体を全面的に再編成するにいたる歴史的過程をとらえようとしたのです。〔・・・〕『資本論』が明らかにしたのは、資本主義経済が物質的であるどころか、 物神的、つまり、観念的な力が支配する世界だということです。 〔・・・〕

マルクスはこう述べました。《商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる》(『資本論』第一巻1-2、岩波文庫1,p158)。いいかえれば、交換は、見も知らぬ、あるいは不気味な他者との間でなされる。 それは、他人を強制する「力」、しかも、共同体や国家がもつものとは異なる「力」を必要とします。これもまた、観念的・宗教的なものです。実際、それは「信用」と呼ばれます。マルクスはこのような力を物神と呼びました。《貨幣物神の謎は、商品物神の、目に見えるようになった、眩惑的な謎にすぎない》(『資本論』)。このように、マルクスは商品物神が貨幣物神、さらに資本物神として社会全体を牛耳るようになることを示そうとした。くりかえしていえば、 『資本論』 が明らかにしたのは、資本主義経済が物質的であるどころか、物神的、つまり、 観念的な力が支配する世界だということです。〔・・・〕

一方、経済的ベースから解放された人類学、政治学、宗教学などは、別に解放されたわけでありません。彼らは、それぞれの領域で見出す観念的な「力」がどこから来るのかを問わないし、問う必要もない、さらに、問うすべも知らない、知的に無惨な、そしてそのことに気づかないほどに無惨な状態に置かれているのです。 (柄谷行人「交換様式論入門」2017年)


今度の書は、『交換様式論入門』の最後に掲げられている次の図の三番目が中心になるんじゃないか。




Bのポジションにある《政治的権力》は「権力のフェティシズム」ーー、《リーダーによる権力のフェティシズムは、共同体を弱体化させ、敵に対して無防備にする[The fetishization of power by leaders weakens the community and leaves it defenseless against its enemies.]》(Enrique Dussel, Twenty Theses on Politics, 2006) ーー、Dの《神の力》も「神のフェティシズム」以外の何ものでもないだろうから。


私も先の柄谷曰くの《知的に無惨な、そしてそのことに気づかないほどに無惨な状態に置かれている》ことから少しでも逃れるために、もっとマジで考え直さないとな。



人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある[pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement  a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste.]  (Lacan, S4, 21 Novembre 1956)

マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)




ーー《ラカンは、父を固有のフェティシズムに基づいて定義した[Lacan définit le père à partir d'un fétichisme particulier]》(エリック・ロラン Éric Laurent, Un nouvel amour pour le père, 2006ーー「父の名文献」)


ヴェールは無から何ものかを創造する[le voile crée quelque chose ex nihilo]。ヴェールは神である[Le voile est un Dieu]。(J.-A. Miller, 享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE, 1994年)

我々は、見せかけを無をヴェールする機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](J.-A. Miller, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)

フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche](ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993)



この「フェティッシュは神である」はメモだけで事実上ほったらかしたままなんだ。