幸福とは、それが可能であると認識される縮小された意味において、個々の「リビドーの経済」の問題である。 ここで万能のアドバイスはない。誰もが、自分が幸せになれる特定の方法を自分で試さなければならない[Das Glück in jenem ermäßigten Sinn, in dem es als möglich erkannt wird, ist ein Problem der individuellen Libidoökonomie. Es gibt hier keinen Rat, der für alle taugt; ein jeder muß selbst versuchen, auf welche besondere Fasson er selig werden kann.](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第2章、1930年) |
このリビドーの経済[Libidoökonomie]は次の文脈のなかでの記述である。 |
厳密な意味での幸福は、むしろ相当量になるまで堰きとめられていた欲求が急に満足させられるところに生れるもので、その性質上、挿話的な現象としてしか存在しえない。快原理が切望している状態も、それが継続するとなると、きまって、気の抜けた快しか与えられないのである。人間の心理構造そのものが、状態というものからはたいした快は与えられず、コントラストによってしか強烈な快を味わえないように作られている。 Was man im strengsten Sinne Glück heißt, entspringt der eher plötzlichen Befriedigung hoch aufgestauter Bedürfnisse und ist seiner Natur nach nur als episodisches Phänomen möglich. Jede Fortdauer einer vom Lustprinzip ersehnten Situation ergibt nur ein Gefühl von lauem Behagen; wir sind so eingerichtet, daß wir nur den Kontrast intensiv genießen können, den Zustand nur sehr wenig.(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年) |
つまり不快がないと真の幸福はないということだ。これはニーチェにおいて繰り返し語られる話でもある。 |
|||||||||||||||||||||
学問の目標について なんだって? 学問の究極の目標は、人間に出来るだけ多くの快と出来るだけ少ない不快をつくりだしてやることだって? ところで、もし快と不快とが一本の綱でつながれていて、出来るだけ多く一方のものを持とうと欲する者は、また出来るだけ多く他方のものをも持たざるをえないとしたら、どうか? Vom Ziele der Wissenschaft. ― Wie? Das letzte Ziel der Wissenschaft sei, dem Menschen möglichst viel Lust und möglichst wenig Unlust zu schaffen? Wie, wenn nun Lust und Unlust so mit einem Stricke zusammengeknüpft wären, dass, wer möglichst viel von der einen haben will, auch möglichst viel von der andern haben muss,(ニーチェ『悦ばしき知識』12番、1882年) |
|||||||||||||||||||||
人間は快をもとめるのではなく、また不快をさけるのではない。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。 快と不快とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《力の増大》である。 Der Mensch sucht nicht die Lust und vermeidet nicht die Unlust: man versteht, welchem berühmten Vorurtheile ich hiermit widerspreche. Lust und Unlust sind bloße Folge, bloße Begleiterscheinung, – was der Mensch will, was jeder kleinste Theil eines lebenden Organismus will, das ist ein Plus von Macht. (ニーチェ『力への意志』第702番、1888年) |
|||||||||||||||||||||
先のフロイトの「可能であると認識される縮小された意味においての」とは、この不快を可能な限り避けるレベルでの、リビドーの経済[Libidoökonomie]を言っている。 |
|||||||||||||||||||||
経済の語源はギリシア語のοικονομίαであり、家計管理を意味する。要するにリビドーの経済とは「リビドーのやりくり」だ。
もっともこれらはすべて代理満足で、真の幸福は死ぬまで訪れないのだけれど。
|