2024年10月27日日曜日

政治の生贄


 ボクは折に触れて次のブレヒトの「政治の生贄」をめぐる引用してきたがね、


私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。(ブレヒト『政治・社会論集』)



この「政治の客体/政治の主体」は、次の加藤周一の「権力の道具/権力を批判する道具」とセットだ。


私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界のなかに踏みこんできた。(加藤周一「現代の政治的意味」1979年)

けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987)



で、「政治の客体=権力の道具」でいいなら、学問や芸術に専念しとけばいいさ。


自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている…。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものかを、あえてここで列挙しようとは思わぬが……。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)



ボクもホンネのところでは女や愛や美に専念したいんだがな、どうもうまくいかないんだよ。


ソクラテスにとっては愛は美を仲だちとする生殖の衝動である[Pour Socrates, l'amour est appetit de generation  par l'entremise de la beauté. ](モンテーニュ『エッセイ』第3巻第5章「ウェルギリウスの詩句について」)

芸術や美へのあこがれは、性欲動の歓喜の間接的なあこがれである[Das Verlangen nach Kunst und Schönheit ist ein indirektes Verlangen nach den Entzückungen des Geschlechtstriebes ](ニーチェ遺稿、1882 - Frühjahr 1887 )



ところで政治と性欲動って繋がらないんだろうかね、戦争なら繋がりそうだがね、ーー《これまでのところ、人間の最高の祝祭は生殖と死であるに違いない[So weit soll es kommen, daß die obersten Feste des Menschen die Zeugung und der Tod sind!  ]》(ニーチェ遺稿137番、1882 - Frühjahr 1887)


祝祭はつねに死の原理によって支配されてもいる。死は、それ自体としてみれば美わしい永久調和を意味するのであろうけれども、個別的生命に執着する日常性の意識にとっては恐怖の対象以外のなにものでもないだろう。殺人や犯罪、革命や戦争はそれなりに人類の祝祭なのである。祝祭を主宰する神的な存在は、聖なるものであると同時に畏怖すべきものでもある。 祝祭に犠牲は不可欠である。犠牲の死によって、はじめて祝祭は祝祭として完結する。(木村敏『時間と自己』1982年)