2024年11月13日水曜日

野田佳彦の美容術

 

野田佳彦はいい顔になったな、


美容術でもしてるのかね、





黃入谷のいふことに、士大夫三日書を讀まなければ理義胸中にまじはらず、面貌にくむべく、ことばに味が無いとある。いつの世からのならはしか知らないが、中華の君子はよく面貌のことを氣にする。明の袁中郞に至つては、酒席の作法を立てて、つらつきのわるいやつ、ことばづかひのぞんざいなやつは寄せつけないと記してゐる。ほとんど軍令である。またこのひとは山水花竹の鑑賞法を定めて、花の顏をもつて人閒の顏を規定するやうに、自然の享受には式目あり監戒あるべきことをいつてゐる。ほとんど刑書である。按ずるに、面貌に直結するところにまで生活の美學を完成させたのはこの袁氏あたりだらう。本を讀むことは美容術の祕藥であり、これは塗ぐすりではなく、ときには山水をもつて、ときには酒をもつて内服するものとされた。詩酒徵逐といふ。この美學者たちは詩をつくつたことはいふまでもない。山水詩酒といふ自然と生活との交流現象に筋金を入れたやうに、美意識がつらぬいてゐて、それがすなわち幸福の觀念に通つた。幸福の門なるがゆゑに、そこには強制の釘が打つてある。明淸の詩人の禮法は魏晉淸言の徒の任誕には似ない。その生活の建前かれいへば、むしろ西歐のエピキュリアンといふものに他人の空似ぐらゐには似てゐる。エピキュールの智慧はあたへられた條件に於てとぼしい材料をもつていかに人生の幸福をまかなふかといふはかりごとに係つてゐるやうに見える。限度は思想の構造にもあり、生活の資材にもあり、ここが精いつぱいといふところで片隅の境を守らざることをえない。しかし、唐山の士太夫たる美學者はその居るところが天下の廣居といふけしきで、臺所はひろく、材料はいろいろ、ただ註文がやかましいために、ゆたかなものを箕でふるつて、簡素と見えるまでに細工に手がこんでゐる。世界觀に影響をあたへたのは、この緊密な生活に集中されてエネルギーの作用である。をりをり道佛の思想なんぞを採集してゐるのは、精神の榮養學だらう。仕事は詩をつくることではなく、生活をつくることであり、よつぽど風の吹きまはしがよかつたのか、精神上の假定が日日の生活の場に造型されて行くといふ幸運にめぐまれて、美學者の身のおちつきどころは神仙への變貌であつた。人閒にして神仙の孤獨を嘗めなくてはならぬいといふ憂目にも逢つたわけだらう。もつとも、人閒のたのしみは拔目なく漁つた揚句なのだから、文句もいへまい。すでに神仙である。この美學者たちが小説を書く道理は無かつた。大人の説、小人の説といふ。必ずしも人物の小大のみには係らないだらう。身分上より見れば、士太夫の文學、町人の文學といふように聞える。士大夫の文學は詩と隨筆とにほかならない。隨筆の骨法は博く書をさがしてその抄をつくることにあつた。美容術の祕訣、けだしここにきはまる。三日も本を讀まなければ、なるほど士大夫失格だろう。人相もまた變らざることをえない。町人はすなはち小人なのだから、もとより目鼻ととのはず、おかげで本なんぞは眼中に無く、詩の隨筆のとむだなものには洟もひつかけずに、せつせと掻きあつめた品物はおのが身の體驗にかぎつた。いかに小人でも、裏店の體驗相應に小ぶりの人生觀をもつてはいけないといふ法も無い。それでも、小人こぞつて、血相かへて、私小説を書き出すに至らなかつたのは、さすがに島國とはちがつた大國の貫祿と見受ける。……(石川淳「面貌について」『夷齋筆談』所収、1952年)


読書をしているかどうかは別にしてーーそんなヒマはないに決まってるーー、酒はしっかり飲んでるんだろうよ。


野田はおバカなことはやったかもしれないが、きわめてすぐれた功績は消費税を上げたことだな、あのまま首相を続けて少なくとも20パーセントまで上げたら、現在の通貨危機は避けられたのだがひどく惜しまれるね(5年前、消費税に関して「踏み絵のすすめ」という投稿をしたことがあるがね)。



実は野田とは同じ大学の同じ学部の同期でね。当時はチャラい顔してたな、女にモテないとしばしばぼやいてたよ、




この顔からあの渋い顔になるのはなかなかのもんだよ。日本の政治家で中国の大人(たいじん)と渡りあえるのは野田ぐらいじゃないかね、ときに昔の癖がでてオロオロする様を克服したら真に一流品だよ。


というわけだが、もちろんこのブログは日記だからな、


日記というものは嘘を書くものね。私なんぞ気分次第でお天気まで変えて書きます。(円地文子ーー江藤淳による『女坂』解説から)