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2024年11月6日水曜日

スティーヴン・イッサーリスと仲間たちによるフォーレ遺作

 

私はフォーレ遺作の弦楽四重奏op121、特にその二楽章アンダンテの偏愛者だが、この11月4日はフォーレ歿後100年でもある(実は私の母も42年前、この同じ日に50歳で死んでいる)。

ロンドンのウィグモア・ホール (Wigmore Hall) で、この11月に入って、「スティーヴン・イッサーリスと仲間たちによるフォーレの室内楽(Fauré’s Chamber Music with Steven Isserlis and friend)」と名付けられた演奏会が五夜連続であったのもこの歿後100年記念のためだが、五夜目の最終日の昨日、最後にop121の演奏があった。以前からスティーヴン・イッサーリスがこの曲をやってくれないかと願っていたので飛びついた。いやあ、実に素晴らしかった。今まで聴いた演奏のなかで、このイッサーリス版が最高のポジションにたちまちのしあがったよ(YouTube 1:05過ぎ当たりから)。今まで聴いたものは、ここがもう少しこうあってほしいとかーー特に第一ヴァイオリンが出しゃばり過ぎとか、チェロをもっと響かせてほしいとか、ヴィオラをもっといい楽器使えよとかーーあるいはまた過去のものなら録音状態が悪いとかで真の満足はしていなかったのだが、もはやこれがカイエ定番だね(僅かな瑕瑾がないではないがそんなものはどうでもよくなるね、少なくともこの今は)。


私はカルテットのメンバーに女性が一人か二人入っているのが好みだが二人の美女がいるのもひどく気に入った。





◾️Fauré’s Chamber Music with Steven Isserlis and friends | Part 5  Live from Wigmore Hall 11/5/2024

FAURÉ String Quartet in E minor Op. 121


Steven Isserlis cello

Joshua Bell violin

Irène Duval violin

Blythe Teh Engstroem viola



やっぱりアレを胸のなかに抱えているだけじゃバランスが崩れるからな


昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた(あるいはおそらくそう感じていた)。子どもは小さな死を、おとなは大きな死を自らのなかにひめていた。女は死を胎内に、男は胸内にもっていた。誰もが死を宿していた。それが彼らに特有の尊厳と静謐な品位を与えた。

Früher wußte man (oder vielleicht man ahnte es), daß man den Tod in sich hatte wie die Frucht den Kern. Die Kinder hatten einen kleinen in sich und die Erwachsenen einen großen. Die Frauen hatten ihn im Schooß und die Männer in der Brust. Den hatte man, und das gab einem eine eigentümliche Würde und einen stillen Stolz.

(リルケ『マルテの手記』1910年)




ところで第二ヴァイオリンのイレーヌ・デュヴァル(Irène Duval)は、今まで全然知らなかったのだが、フランス人父ーーシェフをやっていた父の仕事の関係で彼女は幼年期日本にも住んでいたそうだーーと韓国人母との混血とのこと。2016年にイッサーリスに出会って多大な影響を受けたと言っている[参照]。後期フォーレを愛する彼女もこれからしっかり応援しないとな。



さて肝腎のアンダンテ(1:13:38~)についてどういうべきだろうか。あれを愛するようになるのは修行がいるよ。選り抜きの耳を持っていても、ふつうはすぐには馴染めないんじゃないか。


この音楽のなかで、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫[ larves obscures alors indistinctes] のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。このような二つの状態のあいだに起きたのは、まぎれもない質の変化ということだった。それとはべつに、いくつかの楽節によっては、はじめからその存在ははっきりしていたが、そのときはどう理解していいかわからなかったのに、いまはどういう種類の楽節であるかが私に判明するのであった……(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)



ーー《フォレの晩年の音楽が、はじめ私に灰色の老人の芸術にみえた、もうひとつの原因は、ひとつの楽章の中の幾つかの重要な楽想たちが、ベートーヴェンのように対照を主眼とせず、ごく微妙な点でちがっているが、大きくみると、むしろ共通性があり、一つのものから発生した兄弟のようにみえる事実にもあったのだろう。しかし、私には、そのうち、この共通性があればこそ、彼は、楽式の構想において、あそこまで前進でき、しかも音楽の流れのまとまり、純一性において、欠陥のない作曲をするのに成功したのだということが、わかってきたのだった。》(吉田秀和『私の好きな曲』1977年)


ま、ガキのみなさんはレクイエムとかパヴァーヌとか言ってたらいいさ。


◾️His music has joy and energy. It is luminous’: Steven Isserlis on the genius of Gabriel Fauré, Steven Isserlis 22 Oct 2024 

フォーレ? そうそう、レクイエムが大好きなんだ。 それにあの素敵なパヴァーヌも......」。 これが質問に対する典型的な答えだ〔・・・〕。

「フォーレのレクイエムとパヴァーヌは(ヴァイオリン・ソナタ第1番やピアノ四重奏曲第1番など、彼の他の有名な作品とともに)素晴らしいが、彼の音楽には、もっとよく知られてしかるべき別の世界がある。 幸運なことに、2024年はフォーレの没後100年にあたり、私たちフォーレファンにとって、あまり知られていない彼の傑作を聴衆と分かち合う素晴らしい機会となる。

‘Fauré? Ah, yes, I love the Requiem. And there’s that lovely Pavane too …” This is the typical reply to the question: “Do you like the music of Gabriel Fauré?” (…) Glorious though Fauré’s Requiem and Pavane are (along with his other best-known works, such as the first violin sonata and first piano quartet), there are whole other worlds to his music that deserve to be far better known. Luckily, 2024 marks the centenary of Fauré’s death, which gives us Fauréans a wonderful opportunity to share with audiences his lesser-known masterpieces.



ちなみにイッサーリスは次のように言っている。



Beyond the Requiem: Steven Isserlis’s five favourite Fauré works

Cantique de Racine Fauré was still a teenager – still at school, in fact – when he wrote this meltingly beautiful choral song.


Theme and variations for piano, op 73 Fauré’s only “official” set of variations, this is a winner.


Clair de Lune, Mandoline There are so many glorious Fauré songs that it’s impossible to pick just one; I find these two especially touching.


Piano trio op 120 If I had to choose one piece by Fauré – thank God I don’t – this would have to be it. Ecstatic hardly begins to describe it …


String quartet, op 121 Fauré’s farewell to life, his last work – profound, gentle, deeply moving; and ultimately joyous.


ちょっとまだ甘いところがあるんじゃないかね、op121 よりop120を選ぶなんて。


ああいけね、これだからあのアンダンテの偏愛者はよくないんだ、

愛しているときのわたしはいたって排他的になる。(フロイト『書簡集』)

愛は、人間が事物を、このうえなく、ありのままには見ない状態である。甘美ならしめ、変貌せしめる力と同様、幻想の力がそこでは絶頂に達する。(ニーチェ『反キリスト者』1888年)


ま、とはいえ蚊居肢子の「偉大さ」()は、愛は排他的で幻想だということに十全に自覚的なことだよ。


あるいは次のことにねーー、

愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない[les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime](ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第2版、1970年)



プルーストは《ある人へのもっとも排他的な愛は、常になにか他のものへの愛である[L’amour le plus exclusif pour une personne est toujours l'amour d’autre chose ]》(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)と言ってるが、これは人物に限らず音楽だって一緒だ。重要なのはこの何か他のものだ。あるいはフロイトのリビドーの固着だね


愛の条件は、初期幼児期のリビドーの固着が原因となっている[Liebesbedingung (…) welche eine frühzeitige Fixierung der Libido verschuldet]( フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的機制について』1922年)


で、蚊居肢子は母胎期にくらがりにうごめく幼虫へのリビドー固着の反復ーー《無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)ーーが頻繁にあるんだ、端的には母の血流(?!)だな、しかも母の心音はアンダンテだったからな・・・


いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?おお、人間よ、よく聴け!

- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht!

(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)



プルーストにも《記憶の固着[la fixité du souvenir]》(「見出された時」)という表現があるが、究極的には人はみな胎内の記憶への固着ーー《エスのリビドー[die Libido des Es]》(『自我とエス』4章、1923年)の固着、あるいは《愛の固着[Liebesfixierungen]》(フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年)があるのであって、音楽への愛の起源は本来はそこにしかない。人による違いはそれに敏感かどうかだけだね、


胎内の記憶…母子の時間の底には無時間的なものがある。〔・・・〕この無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう。生物的にみて、動く自由度の低いものほど、化学的その他の物質的コミュニケーション手段が発達しているということがある。植物や動物でもサンゴなどである。胎児もその中に入らないだろうか。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年『時のしずく』所収)



で、胎内の記憶への固着なんてことは言わないまでも、重要なのは対象の鞘におさまっているものではなく自分自身の内部に延びているものだ、これが愛のカナメだね。

人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。

それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに[de la nature, de la société, de l'amour, de l'art lui-même]、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている[toute impression est double, à demi engainée dans l'objet, prolongée en nous-mêmes par une autre moitié]。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出された時」)




繰り返せば、《くらがりにうごめくはっきりしない幼虫[ larves obscures alors indistinctes]》(プルースト「囚われの女」)のobscuritéだよ、《われわれ自身から出てくるものといえば、われわれのなかにあって他人は知らない暗所[ l'obscurité qui est en nous et que ne connaissent pas les autres]から、われわれがひっぱりだすものしかないのだ。》(プルースト「見出された時」)。


自身のなかの井戸だね。



冬のなかで  高橋悠治 水牛 2009年1月


もう旅はしない
世界の向こう側に行かなくても
内側へおりてゆく井戸がある
時間はさかさにまわりはじめる
未知の過去に未来はある
背後にはひらいた窓がある
そこから出てゆくまで
もうしばらくはここにいる



この高橋悠治の云う、井戸の底の「未知の過去」を、プルーストは「未知の表徴(未知のシーニュ)」と言った。ーー《未知の表徴(私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状の表徴) Le livre intérieur de ces signes inconnus (de signes en relief, semblait-il, que mon attention explorant mon inconscient allait chercher, heurtait, contournait, comme un plongeur qui sonde)》(「見出された時」)