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2025年4月4日金曜日

タワケかつ病気が人の宿命


人はみな啓蒙されるとタワケになるんだよ、阿呆にね。


私は相対的にはタワケにすぎないよ…言わせてもらえば、全世界の連中と同様に相対的にはタワケだ。というのは、たぶん私は、いささか啓蒙されているからな[Comme je ne suis débile mental que relativement… je veux dire que je le suis comme tout le monde …comme je ne suis débile mental que relativement, c'est peut-être qu'une petite lumière me serait arrivée. ](Lacan, S24, 17 Mai 1977)


しかも人はみな超自我をもってるからな、


私は病気だよ。なぜなら、皆と同じように、超自我をもっているからな[j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde]( Lacan parle à Bruxelles, 26 Février 1977)


つまり、タワケかつ病気が人の宿命だ。


最近はこういうことをあまり言わないようにしてるんだが、蚊居肢ブログの基盤はこれだよ。



さらに言えばーーこれは比較的よく知られているだろうがーー、人はみな妄想するんだ。


フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。

Freud…Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)


妄想ってのは、上にラカンが言ってるように夢を見るということにすぎない。つまり投射(投影)するということだ。


夢は投射である。つまり内的過程の外在化である[Ein Traum ist also auch eine Projektion, eine Veräußerlichung eines inneren Vorganges. ](フロイト『夢理論へのメタ心理学的補足』1917年)

投射メカニズムの使用とその結果において妄想的性格が現れる[…den Projektionsmechanismus und den Ausgang dem paranoiden Charakter Rechnung trägt.]  (フロイト『症例シュレーバー』第3章、1911年)

内的知覚の外界への投射は原始的メカニズムであり、たとえばわれわれの感覚的知覚もこれにしたがっている。したがってこのメカニズムは普通われわれの外界形成にあずかってもっとも力のあるものである[Die Projektion innerer Wahrnehmungen nach außen ist ein primitiver Mechanismus, dem z. B. auch unsere Sinneswahrnehmungen unterliegen, der also an der Gestaltung unserer Außenwelt normalerweise den größten Anteil hat.](フロイト『トーテムとタブー』「Ⅱ タブーと感情のアンビヴァレンツ」第4節、1913年


内的過程あるいは内的知覚とは、基本的には不快な欲動だ、

不快なものとしての内的欲動刺激[innere Triebreize als unlustvoll](フロイト『欲動とその運命』1915年)

欲動過程による不快[die Unlust, die durch den Triebvorgang](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


つまり、不快な内的欲動刺激からの回復の試みが妄想なのであって、みんな日々やってることだよ、

病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。[Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion.] (フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』「症例シュレーバー」第3章、1911年)



これはある意味退屈な話だね、重要なのはタワケと病気のほうだよ。


ところでタワケは田分けから来ているらしいな、これは、フロイト的には超自我が自我とエスーーエスの欲動ーーを分けることだよ。


心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)


つまりタワケの別名は自我分裂だろうよ、


自我分裂の事実は、個人の心的生に現前している二つの異なった態度に関わり、それは互いに対立し独立したものであり、神経症の普遍的特徴である。もっとも一方の態度は自我に属し、もう一方はエスへと抑圧されている。

Die Tatsachen der Ichspaltung, …Dass in Bezug auf ein bestimmtes Verhalten zwei verschiedene Ein-stellungen im Seelenleben der Person bestehen, einander entgegengesetzt und unabhängig von einander, ist ja ein allgemeiner Charakter der Neurosen, nur dass dann die eine dem Ich angehört, die gegensätzliche als verdrängt dem Es. (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


あるいは、《欲動要求と現実の抗議のあいだに葛藤があり、この二つの相反する反応が自我分裂の核として居残っている[Es ist also ein Konflikt zwischen dem Anspruch des Triebes und dem Einspruch der Realität. …Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen]  》(フロイト『防衛過程における自我分裂』1939年)



ああ、不幸だな、人間ってのは。未熟児として生まれてきたせいでタワケになってしまって。


家族というものは、別に人間の発明ではない。少産育児系統の動物は、魚であろうとゾウであろうと家族を営む。多産運命任せ系統ならば家族を持たない。例外や中間例はいくらでもあるだろうが、だいたいそう言ってまちがいない。


人間はどうも両方の可能性を持っているのではないか。他のサル類を圧倒したのは、スズメ型戦略、すなわち数である。その戦術の第一が、三六五日、時を構わず性交できる点、第二は、妊娠期間が例外的に短く、しかも出産後、すぐまた妊娠できる点である。短期間にたくさんの子ができる。人間は頭脳よりも先ず下半身で他のサル類に勝ったのである。だから最古の美術が腹部のふくれた、おそらく妊娠した女性の堂々たる像を描き、また多数の女性器をいたるところに記しているのかもしれない。〔・・・〕

私たちは生物界の大変な成り上がり、自然界のバブルだ。美術史家ギ―ディオンは石器時代の絵画を分析して、旧石器時代の人間は劣等感の塊だったと言っている。ライオンより弱く、カモシカより遅く、マンモスより力がなく、ワタリガラスのように空を飛べないなど、よいところがない。だから、動物は敬意を以て、ていねいに描かれている。氏族のトーテムが動物なのは、せめて祖先が優れた動物だったということにしたいからだろう。


ところが、新石器時代になると、美術は一見貧困になるが、狩りの線描など、人間の集団行動が多い。人間は動物を軽蔑するようになったのだ。しかし、自分より偉いものが何もないと、成り上がりは落ちつかず、頭の上がスース―して寒い。そこで神が生れてきたという説がある。


スズメ型なら育児はいい加減なのが大方の動物である。ところが、ヒトではそうはゆかなかった。他のサル類よりも格段に妊娠期間を短くするためには、赤ん坊を未熟児で産むほかなかった。だから、一歳までは、他の動物の胎児なみの保護が必要な状態であり、一歳までの成長があれほども急なのである。スイスの動物学者アドルフ・ポルトマンは、頭が大きいから参道通過のために生理的早産になったのだというが、それは結果論だと私は思う。小さく産んだから子宮の制限なしに脳が大きく育ったということではないか。それでもヒトの赤ん坊の知能はチンパンジーの赤ん坊に劣る。

(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000年初出『時のしずく』所収)


いやシツレイしました、啓蒙されたタワケが戯言を記してしまって。