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2025年6月4日水曜日

善人向け「蜂蜜入り壺」

 

そこのキミはとっても善人だな、この際「蜂蜜入り壺」贈っとくよ、ーー《小さい愚行やはなはだ大きい愚行がわたしに加えられても、わたしは、一切の対抗策、一切の防護策を――従って当然のことながら一切の弁護、一切の「弁明」を自分に禁ずるのである。わたし流の報復といえば、他者から愚かしい仕打ちを受けたら、できるだけ急いで賢さをこちらから送り届けるということである。こうすれば、たぶん、愚かしさの後塵を拝さずにすむだろう、比喩を使っていうなら、わたしは、すっぱい話にかかりあうことをご免こうむるために、糖菓入りのつぼを送るのである。》(ニーチェ『この人を見よ』)


砂糖菓子よりは蜂蜜のほうがキミ向けにはいいだろうからな



亜麻色の蜜蜂よ きみの針が

いかに細く鋭く命取りでも、

私はこのたおやかな籠の上に

レースの夢しか投げかけなかった。


刺せ この胸のみれいな瓢を。

愛の死に、あるいは眠るところを、

ほんの朱色の私自身が

まろく弾む肌にやってくるように!


素早い拷問が大いに必要だ。

生きのよい明確な悪は

眠れる責め苦にはるかに勝る!


この金の小さな警告が

わが感覚を照らさねば

愛は死ぬか眠り込むかだ!


ーーヴァレリー「蜜蜂」(中井久夫訳)




私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。(坂口安吾『蟹の泡』1946年)

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。(坂口安吾『続堕落論』1946年)

まことの悪党というものには、ともかく信義がある。信長は悪党にあらず、と言うなかれ。彼は悪党である。一身をはり、投げすてているではないか。賭場のアンチャンのニセ悪党とは違う。ホンモノの悪党は、悲痛なものだ。人間の実相を見ているからだ。人間の実相を見つめるものは、鬼である。悪魔である。この悪魔、この悪党は神に参じる道でもある。ついにアリョーシャの人格を創造したドストエフスキーは、そこに参ずる通路には、悪党だけしか書くことができなかったではないか。(坂口安吾『織田信長』1948年)


安吾の「善人と悪人」は、ニーチェの「善人と悪人」だね、ほとんどそのまま。


おお、わたしの兄弟たちよ、人間の未来全体にわたっての最大の危険は、どういう者たちのもとにあるか。それは善い者、正しい者たちのもとにあるのではないか。


つまりかれらは次のように語り、次のように感じている、「われわれはすでに、何が善であり、正義であるかを知っている。われわれはまたそれを身につけている。まだそれをさがしている者にわざわいあれ」と。


よし悪人がどんな害をおよぼそうと、善人のおよぼす害は、もっとも害のある害である。Und was für Schaden auch die Bösen thun mögen: der Schaden der Guten ist der schädlichste Schaden!  


たとえ世界誹謗者がどんな害をおよぼそうと、善人のおよぼす害は、もっとも害のある害である。


おお、わたしの兄弟たちよ、かつて「これはパリサイ人である」と言ったある人は、善い者、正しい者たちの心を見抜いていたのだ。だが、かれのことばの意味を理解した者はなかった。


善い者、正しい者たち自身も、かれを理解することができなかった。かれらの精神は、かれら自身の「やましくない良心」という牢獄のなかに囚われていた。測りがたく怜悧なのが、善人たちの愚鈍さだ。

Die Guten und Gerechten selber durften ihn nicht verstehen: ihr Geist ist eingefangen in ihr gutes Gewissen. Die Dummheit der Guten ist unergründlich klug.  


しかし、真実のところはこうである。善い者たちはパリサイ人たらざるを得ないのだーーかれらにとってそれは必然のことである。

善い者たちは、独自の徳を見いだした者を、十字架にかけざるを得ない。これが真実のすがたである。

そして、善い者、正しい者たちの国土、心、土壌がどんなものであるかを発見した第二の者は、「かれらはだれを最も憎むか」と問うた者だった。


かれらが最も憎むのは創造する者である。既成の表と古い価値を破る破壊者である。――それをかれらは犯罪者と呼ぶ。

つまり、善い者たちは、創造の力をもたないのだ。かれらはいつも終末の発端である。


かれらは、新しい価値を新しい表に書きつける者を十字架につける。かれらは、おのれの

ために未来を犠牲にする。かれらは、人間の未来全体を十字架にかける。


善い者たちーーそれはつねに終末の発端であったのだ。


おお、わたしの兄弟たちよ、君たちは、わたしがいま言ったことを理解したか。またわたしがかって「末人」について言ったことを理解したかーー

人間の未来全体にわたっての最大の危険は、どういう者たちのもとにあるか。それは善い者、正しい者たちのもとにあるのではないか。

打ち砕け、善い者、正しい者たちを打ち砕け。 おお、わたしの兄弟たちよ、君たちはこのことばの意味をも理解したか。

(ニーチェ『ツァラトゥストラ』 第三部「新旧の表」26-27節)


善人どもの生存条件は嘘である、言いかえれば、現実というものが根本においてどういうふうにできているかを絶対に見ようとしないこと。すなわち、現実というものは、いつでも善意的本能をそそのかし、招きよせるようなものではないこと、まして、近視眼的な、 お人好しの人間が出しゃばって手を出すことにいつも甘い顔を見せるようなものではなに見ようとしないことである。

Die Existenz-Bedingung der Guten ist die Lüge—: anders ausgedrückt, das Nicht-sehn-wollen um jeden Preis, wie im Grunde die Realität beschaffen ist, nämlich nicht der Art, um jeder Zeit wohlwollende Instinkte herauszufordern, noch weniger der Art, um sich ein Eingreifen von kurzsichtigen gutmüthigen Händen jeder Zeit gefallen zu lassen.

ツァラトゥストラは、楽天家は厭世家と同様にデカダンであり、おそらくはいっそう有害であることを掴んだ最初の人間であるが、こう言っている。「善人はけっして真実を語らない。いつわりの岸べといつわの安全とを、善い者たちは君たちに教えていたのだ。君たちは、善い者たちの嘘のなかで生まれ、それにかくまわれていたのだ。一切は善い者たちによって、徹底的にいつからか、曲げられている。」と。世界は幸いなことに、ただ善良であるだけの畜群がそこでちっぽけな幸福を見いだそうとするような、そんなけちけちした本能を見越して建てられてはいない。万人が「善人」に、畜群に、お人よしに、善意的なものに、「美しき魂」にならねばならないとかーーもしくは、ハーバート・スペンサー氏の希望にかなうように、利他的にならねばならないと要求することは、生存からその偉大な性格を奪うことにほかならない。人類を去勢して、あわれむべき宦官の状態に引き下げることにほかならない。ーーしかもこれがいままで試みられてきたことなのだ!・・・・・道徳と呼ばれていたことなのだ!・・・・・この意味で、ツァラトゥストラは、善人たちを、あるいは「末人」と呼び、あるいは「終末の開始」と呼ぶのである。何よりも、彼は善人たちをもっとも有害な人種と感ずる。それは、彼らが真理を犠牲にし、また未来を犠牲にして、おのれの生存をつらぬくからである。


Zarathustra, der Erste, der begriff, dass der Optimist ebenso décadent ist wie der Pessimist und vielleicht schädlicher, sagt: gute Menschen reden nie die Wahrheit. Falsche Küsten und Sicherheiten lehrten euch die Guten; in Lügen der Guten wart ihr geboren und geborgen. Alles ist in den Grund hinein verlogen und verbogen durch die Guten. Die Welt ist zum Glück nicht auf Instinkte hin gebaut, dass gerade bloss gutmüthiges Heerdengethier darin sein enges Glück fände; zu fordern, dass Alles "guter Mensch," Heerdenthier, blauäugig, wohlwollend, "schöne Seele"—oder, wie Herr Herbert Spencer es wünscht, altruistisch werden solle, hiesse dem Dasein seinen grossen Charakter nehmen, hiesse die Menschheit castriren und auf eine armselige Chineserei herunterbringen.— Und dies hat man versucht! ... Dies eben hiess man Moral ... In diesem Sinne nennt Zarathustra die Guten bald "die letzten Menschen," bald den "Anfang vom Ende"; vor Allem empfindet er sie als die schädlichste Art Mensch, weil sie ebenso auf Kosten der Wahrheit als auf Kosten der Zukunft ihre Existenz durchsetzen. 

(ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私は一個の運命であるのか」第4節、1888年)


善人についての最初の心理学者ツァラトゥストラは、ーー従ってーー悪人の友[ein Freund der Bösen]である。デカダンス種の人間が最高種の位にのし上がったのは、その反対の種、すなわち確信をもって生きている強力な種類の人間を犠牲にすることによってのみ、起こりえたのである。畜群が汚れのない徳の栄光につつまれて輝くためには、例外人は悪人に貶められるほかはない。欺瞞があくまでも「真理」という名称を自分のその光学のために要求するとすれば、真に誠実な者は、最悪の名称のなかに編入されるほかはない。ツァラトゥストラのことばには、この点について何のあいまいさもない。彼は言う。善人たち、「最善の者たち」の正体を見ぬいたというそのことが、自分に人間一般に対する恐怖心を与えたのである。この嫌悪から自分には翼が生えたのだ、「はるかな未来へ飛翔する」翼が、と。ーー彼は隠そうとしない。彼のような型の人間、相対的に超人的な型の人間は、ほかならぬこの善人たちと対比して超人的なのだということ、そして善人たち、正義の人間たちは、この超人を悪魔と呼ぶだろうというととを……[―er verbirgt es nicht, dass sein Typus Mensch, ein relativ übermenschlicher Typus, gerade im Verhältniss zu den Guten übermenschlich ist, dass die Guten und Gerechten seinen Übermenschen Teufel nennen würden ...](ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私は一個の運命であるのか」1888年)




ちなみにフロイトの「善人と悪人」はこうだ。


実際のところの悪の「根絶」などはない[In Wirklichkeit gibt es keine »Ausrottung« des Bösen]。それどころか、心理学的――より厳密には精神分析学的ーー探究のしめすところによれば、人間のもっとも深い本質はもろもろの欲動活動にあり、この欲動活動は原始的性格をそなえていて、すべてのひとびとにおいて同質であり、ある種の根源的な欲求の充足をめざすものである。この欲動諸活動は、それ自体をとれば良くも悪くもない。われわれがこの欲動諸活動とその現れとを分類する仕方は、それらが人間共同社会の欲求ないし要求にかかわるさいの、かかわり方にしたがっている。文明社会から悪として拒絶される諸活動のすべて――その代表として、利己的活動と残忍な活動とがあげられるがーーは、この原始的諸活動の性格をもっていることが認められているのである。

成人の行為のなかに認められるこの原始的諸活動は、長い発達の道程をへた後のものなのである。それら活動は、制止され、他の目標や領域に向けられ、そして互いに融合しあったり、対象をかえたりし、さらには、部分的にほこ先を自分自身に向けたりもする。ある種の欲動に対する反動形成は、その欲動の内容が変更したかのように巧みに見せかけ、エゴイズムから愛他主義が、また残忍さから同情が生じたかのように見せる[Reaktionsbildungen gegen gewisse Triebe täuschen die inhaltliche Verwandlung derselben vor, als ob aus Egoismus – Altruismus, aus Grausamkeit – Mitleid geworden wäre]。この反動形成に役立つのは、多くの欲動諸活動が、ほとんど最初から、対立的な対をなして現われるという事態である。これは、アンビヴアレンツとよばれる、非常に奇妙で、通俗的な知識からは縁遠いところの事態である。このアンビヴアレンツについて、もっとも容易に観察され、理解されやすい例は、非常にしばしば、同一の人間において激しい愛と憎しみとが互いに一体となって出現する、という事実である。精神分析学はさらに加えて、対立する二つの感情活動が、同一の人間をその対象とすることが稀でないことをも指摘するのである。

このような「欲動の運命」のすべてを克服した後にはじめて、人間の性格とよばれるものが生まれる。そしてこの性格を「悪」と「善」とに分類しようとしても、周知のように、非常に不完全にしかなされない。ひとがまったく善人であったり、あるいは悪人であったりすることはほとんどない[Der Mensch ist selten im ganzen gut oder bös]。多くは、ある点では「善」、他の点では「悪」であったり、または、ある外的条件のもとでは「善」、他の条件のもとでは決定的に「悪」なのである。面白いことに、少年期に激しい「悪」の諸活動が存在することが、後の成年期に「善」への転換が生ずるための明白な条件になることが多いことを、われわれは経験している。 少年期にもっとも利己主義的であった者が、もっとも人助けをこのむ最大に献身的な市民になりうるのである。そしてまた、多くの同情心にあふれるひととか、人道主義者や動物愛護者は、少年期におけるサディストや動物虐待者から成長してきたのである。

「悪い」欲動の改造は、二つの要因の共同作用のたまものであり、いい変えれば、内的要因と外的要因とによる成果である。内的要因とは、悪いーーいわゆる利己的のーー諸欲動が、エロティシズムにより影響されることである。ここでエロティシズムとは、最広義における人間の愛情欲求をさしている。エロス的要素の混入により、利己的諸欲動は、社会的諸欲動へと変化するのだ。愛されるということは、そのためには他の諸利益を放棄してもよいような、ある利益として評価されるようになる。これに対して、外的要因は教育による強制 である。この教育は、文明的環境の諸要求を代表し、また文明環境の直接的な作用によって進められる。文明は欲動充足を放棄することにより獲得されたものであり、すべての新参者が同様の欲動放棄をするように要求するのである。個人の生活を通じて、たえず外的強制から内的強制への転化が起こる。文明の諸要求に導かれて、利己的性向は、エロス的要素が加味されることによって、しだいに愛他的で社会的な性向へと転化するのである。結局は、つぎのことが認められる。つまり、人間の発達に対して影響をもつようなすべての内的強制は、本来、人類史の観点からは、単なる外的強制であった、ということである。今日生まれてくるひとびとは、利己的諸欲動から社会的諸欲動への転換のための傾向(素質)の一部を、生得的な機構としてたずさえてきている。そしてこの機構が、わずかなきっかけにより、欲動転換を完成させるのである。この欲動転換のためのそれ以外の部分は、個人の生活自体のなかで展開されていくものなのである。このように、個人は、その現在おかれている文明環境から影響されているだけでなく、その先祖がたどった文明史の影響をもこうむっている。

(フロイト『戦争と死に関する時評』1915年)



今日の教育に向けられなければならない非難は、セクシャリティがその後の人生において演ずるはずの役割を若い人に隠しておくということだけではない。そのほかにも今日の教育は、若い人々がいずれは他人の攻撃性の対象にされるにちがいないのに、そのための心の準備をしてやらないという点で罪を犯している。若い人々をこれほど間違った心理学的オリエンテーションのまま人生に送りこむ今日の教育の態度は、極地探検に行こうという人間に装備として、夏服と上部イタリアの湖水地方の地図を与えるに等しい。そのさい、倫理の要求のある種の濫用が明白になる。すなわち、どんなきびしい倫理的要求を突きつけたにしても、教師のほうで、「自分自身が幸福になり、また他人を幸福にするためには、人間はこうでなければならない。けれども、人間はそうではないという覚悟はしておかねばならない」と言ってくれるなら、大した害にはならないだろう。ところが事実はそうではなくて、若い人々は、「他の人たちはみなこういう倫理的規則を守っているのだ。善人ばかりなのだ」と思いこまされている。そして、「だからお前もそういう人間にならなければならないのだ」ということになるのだ。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第8章、1930年)



ま、でも精神分析なんてどうでもいいよ、キミのようなタイプの「きわめて善人」でも次の漱石ならなんとかいけるんじゃないかね、ドウダイ?


「……しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」 (夏目漱石『こころ』二十八)