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2025年6月9日月曜日

タテマエなきホンネの最悪の時代

 

かつて『批評空間』の討議において、酒井直樹氏ーー歴史学者で、コーネル大学人文学部教授ーーのとても印象的な発言がある。この差別の定義なら、人はみな差別主義者となる。柄谷行人が形式的な平等の重要性を強調した後での問いである。


酒井直樹)差別はいろいろな形で存在しています。民族差別、人種差別、性差別についてはこれまで話になりましたが、それ以外の差別があります。家族内の人間と家族外の人間は当然差別されるし、会社内の人間と会社外の人間、さらには、会社や役所の上役と平の人は差別されます。入学試験、あれは典型的な差別のシステムです。ではこれらの差別のうちの何が問題になるのでしょうか。柄谷さんがいわれた形式的な平等にこれらの差別のうちの何が抵触し、何が抵触しないのでしょうか。家族の内外、会社の上下間、さらに入学試験の点数による差別でも、そこに、人種、民族、国民、身分、出自、性などの要素が絡まない限り、一般に差別として問題にされることはないでしょう。なぜ、ことさら、ある種の差別のみ取り上げて、それを弾劾しなければならないのでしょうか。(討論「ポストコロニアルの思想とは何か」鵜飼哲・酒井直樹・鄭暎恵・冨山一郎・村井紀・柄谷行人ーー『批評空間』11-1996)


《家族内の人間と家族外の人間は当然差別されるし、会社内の人間と会社外の人間、さらには、会社や役所の上役と平の人は差別されます。入学試験、あれは典型的な差別のシステムです》とあるが、この問いに対して柄谷行人は黙然としてしまう。


要するに、形式的な平等はタテマエであり、偽善であるだろう。


柄谷行人)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。


むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。


浅田彰)善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思います。〔・・・〕


日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。(浅田彰『「歴史の終わり」と世紀末の世界』1994年)


さてどうだろう? 偽善としてのタテマエは大切だが、日本人はそれをすぐ捨ててしまい、他方、世界、とくに欧米人は偽善に徹底する傾向があるのだろうか。少なくとも2020年代に入っての宇露戦争、ガザジェノサイドでの欧米の振る舞いはまったくそうではない。人権という偽善はあっけなく捨て去られたのである。だから私はかつてのこういった日本人批判の議論自体を疑い始めている。世界も似たようなものじゃないか、と。


ところで浅田彰は「共感の共同体」日本についてかつてこう言った。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それはむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)


ーーなおここで浅田彰はシンボリックとイマジナリーというラカン用語を使っているが、ラカンにおいて「父の名」は象徴界の言語であるのは正しいが、「母の名」は厳密にはイマジネール(想像界)ではなくリアル(現実界)である。だが浅田は「前言語的」と言っているので厳密さを期さなければ、現代主流ラカン派の観点からも間違いではない。


ここでふたたび酒井直樹による「共感の共同体」を掲げよう。

ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収)


たしかに浅田彰曰くの、日本人は《言語的というより前言語的》な風土があり、それが場合によっては《不可視の牢獄》となっているだろうし、かつまた酒井直樹曰くの、責任追及精神が弱く、《「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先している》傾向が強いだろう。


おそらく空気を読む文化のせいで。

日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」2013年)


この文化の基盤のひとつが、柄谷の分析によれば、父系的ではない母系制文化である。

日本には、中心があって全体を統い御するような権力が成立したことがなかった。〔・・・〕あらゆる意志決定(構築)は、「いつのまにかそう成る」(生成)というかたちをとる。〔・・・〕日本において、権力の中心はつねに空虚である。だが、それも権力であり、もしかすると、権力の本質である。〔・・・〕


見かけの統合はなされているが、それは実は空虚な形式である。私は、こうした背景に、母系制(厳密には双系制)的なものの残存を見たいと思っている。それは、大陸的な父権的制度と思考を受け入れながらそれを「排除」するという姿勢の反復である。


日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992年 )


とはいえ、である。世界的に「父は死んだ」のではないか。



もはやどんな恥もない[ Il n'y a plus de honte] …下品であればあるほど巧くいくよ[ plus vous serez ignoble mieux ça ira] (Lacan, S17, 17 Juin 1970)

文化は恥の設置に結びついている[la civilisation a partie liée avec l'instauration de la honte.]〔・・・〕ラカンが『精神分析の裏面』(1970年)の最後の講義で述べた「もはや恥はない」という診断。これは次のように翻案できる。私たちは、恥を運ぶものとしての大他者の眼差しの消失の時代にあると[au diagnostic de Lacan qui figure dans cette dernière leçon du Séminaire de L'envers : «Il n'y a plus de honte». Cela se traduit par ceci : nous sommes à l'époque d'une éclipse du regard de l'Autre comme porteur de la honte.](J.-A. MILLER, Note sur la honte, 2003年


ここでジャック=アラン・ミレールが言っている「大他者の眼差しの消失」における大他者は「父の眼差し」を意味する。そして、《大他者とは父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.]》(J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)


ちなみにラカンはこう言っている、《フロイトは私を眼差すために私を見る必要はない[FREUD n'a pas besoin de me voir pour qu'il me regarde.]》(Lacan, S16, 08  Janvier  1969)。つまりラカンにとってフロイトは大他者の父だったのである。


ラカンは学園紛争を契機にエディプス的父の失墜を言った。

父の蒸発 [évaporation du père] (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)

エディプスの失墜[ déclin de l'Œdipe](Lacan, S18, 16 Juin 1971)


この文脈のなかで、《レイシズム勃興の予言[prophétiser la montée du racisme]》(Lacan, AE534, 1973)もした。

というわけで、ラカニアン観点では、世界的に最悪の時代が訪れている。

今日、私たちは家父長制の終焉を体験している。ラカンは、それが良い方向には向かわないと予言した[Aujourd'hui, nous vivons véritablement la sor tie de cet ordre patriarcal. Lacan prédisait que ce ne serait pas pour le meilleur. ]。〔・・・〕

私たちは最悪の時代に突入したように見える。もちろん、父の時代(家父長制の時代)は輝かしいものではなかった〔・・・〕。しかしこの秩序がなければ、私たちはまったき方向感覚喪失の時代に入らないという保証はない[Il me semble que (…)  nous sommes entrés dans l'époque du pire - pire que le père. Cer tes, l'époque du père (patriarcat) n'est pas glorieuse, (…) Mais rien ne garantit que sans cet ordre, nous n'entrions pas dans une période de désorientation totale](J.-A. Miller, “Conversation d'actualité avec l'École espagnole du Champ freudien, 2 mai 2021)



結局、ラカン的観点からは、父の復権が必要なのである。支配の論理に陥りがちな父の名自体の復権ではなく、父の機能の復権が。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで[le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.](Lacan, S23, 13 Avril 1976)


ここでのラカン曰くの父の名の使用とは、私の観点では中井久夫曰くの父なるレリギオに相当する、《母なるオルギア(距離のない狂宴)/父なるレリギオ(つつしみ)》(中井久夫「母子の時間、父子の時間」摘要、2003年『時のしずく』所収)


ケレーニーはアイドースをローマのレリギオ(religio 慎しみ)とつながる古代ギリシアの最重要な宗教的感性としている。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年)


さらに《国家、部族、地域社会はそれ自体が父親的である。しかし元来の父の役割はそうではなかったと私は思う》。そう、本来の父とは、天才宗教史学者カール・ケレーニイのいうレリギオなのだろう。



なおフロイト的にも文化は偽善である。ホンネとしての欲動を制御するための必要不可欠な偽善である。


文明社会は、善い行為を要求するが、その行為の基礎となっている欲動については意に介さない。そのためこの社会は、多くのひとびとを文明に服従させはしたが、といって彼らが本性から服従したわけではない。〔・・・〕

文明の圧迫は、病的な結果をもたらすことこそないにしても、性格形成の不全を起こしたり、制止された諸欲動を一触即発の状態においたりする。このような状態の欲動は、しかるべき機会さえあれば、その充足へと爆発するものなのである。つねに規範通りに反応することを強いられている者は、その規範が彼の欲動諸傾向を表わしてない以上、心理学的に見れば分不相応の生き方をしているのであり、それゆえ客観的には偽善者とよばれてしかるべきである。ここで、その規範と欲動傾向との違いが、その人間にはっきり意識されていようといまいと、それは問題ではない。現在のわれわれの文明が、この種の偽善者をつくりあげることをひとかたならず助けていることは、否定しえない事実である。あえて主張するならば、現代文明はこのような偽善によって構築されており、ひとびとが心理学的真実に基づいて生きようと企てようものなら、その文明は広範囲における修正を余儀なくさせられるだろう。

Die Kulturgesellschaft, die die gute Handlung fordert und sich um die Triebbegründung derselben nicht kümmert, hat also eine große Zahl von Menschen zum Kulturgehorsam gewonnen, die dabei nicht ihrer Natur folgen.(…)

Der sonstige Druck der Kultur zeitigt zwar keine pathologische Folgen, äußert sich aber in Charakterverbildungen und in der steten Bereitschaft der gehemmten Triebe, bei passender Gelegenheit zur Befriedigung durchzubrechen. Wer so genötigt wird, dauernd im Sinne von Vorschriften zu reagieren, die nicht der Ausdruck seiner Triebneigungen sind, der lebt, psychologisch verstanden, über seine Mittel und darf objektiv als Heuchler bezeichnet werden, gleichgiltig ob ihm diese Differenz klar bewußt worden ist oder nicht. Es ist unleugbar, daß unsere gegenwärtige Kultur die Ausbildung dieser Art von Heuchelei in außerordentlichem Umfange begünstigt. Man könnte die Behauptung wagen, sie sei auf solcher Heuchelei aufgebaut und müßte sich tiefgreifende Abänderungen gefallen lassen, wenn es die Menschen unternehmen würden, der psychologischen Wahrheit nachzuleben.

(フロイト『戦争と死に関する時評』1915年)


人間の原始的、かつ野蛮で邪悪な衝動(欲動)は、どの個人においても消え去ったわけではなく、私たちの専門用語で言うなら、抑圧されているとはいえ依然として無意識の中に存在し、再び活性化する機会を待っています[die primitiven, wilden und bösen Impulse der Menschheit bei keinem einzelnen verschwunden sind, sondern noch fortbestehen, wenngleich verdrängt, im Unbewußten, wie wir in unserer Kunstsprache sagen, und auf die Anlässe warten, um sich wieder zu betätigen.](フロイト書簡、Brief an Frederik van Eeden、1915年)



…………………



※附記


学園紛争を契機に「父なき世代」が始まったことについては、日本でも中井久夫が指摘している。

「学園紛争は何であったか」ということは精神科医の間でひそかに論じられつづけてきた。1960年代から70年代にかけて、世界同時的に起こったということが、もっとも説明を要する点であった。フランス、アメリカ、日本、中国という、別個の社会において起こったのである。「歴史の発展段階説」などでは説明しにくい現象である。


では何が同時的だろうかと考えた。それはまず第二次世界大戦からの時間的距離である。1945年の戦争終結の前後に生まれた人間が成年に達する時点である。つまり、彼らは戦死した父の子であった。あるいは戦争から還ってきた父が生ませた子であった。しかも、この第二次世界大戦から帰ってきた父親たちは第一次大戦中あるいは戦後の混乱期に生まれて恐慌時代に青少年期を送っている人が多い計算になる。ひょっとすると、そのまた父は第一次大戦が当時の西欧知識人に与えた、(われわれが過小評価しがちな)知的衝撃を受けた世代であるかもしれない。


二回の世界大戦(と世界大不況と冷戦と)は世界の各部分を強制的に同期化した。数において戦死者を凌駕する死者を出した大戦末期のインフルエンザ大流行も世界同期的である。また結核もある。これらもこの同期性を強める因子となったろうか。

では、異議申立ての内容を与えたものは何であろうか。精神分析医の多くは、鍵は「父」という言葉だと答えるだろう。実際、彼らの父は、敗戦に打ちひしがれた父、あるいは戦勝国でも戦傷者なりの失望と憂鬱とにさいなまれた父である。戦後の流砂の中で生活に追われながら子育てをした父である。古い「父」の像は消滅し、新しい「父」は見えてこなかった。戦時の行為への罪悪感があるものも多かったであろう。戦勝国民であっても、戦場あるいは都市で生き残るためにおかしたやましいことの一つや二つがあって不思議ではない。二回の大戦によってもっともひどく損傷されたのは「父」である。であるとすれば、その子である「紛争世代」は「父なき世代」である。「超自我なき世代」といおうか。「父」は見えなくなった。フーコーのいう「主体の消滅」、ラカンにおける「父の名」「ファルス」の虚偽性が特にこの世代の共感を生んだのは偶然でなかろう。さらに、この世代が強く共感した人の中に第一次大戦の戦死者の子があることを特筆したい。特にアルベール・カミュ、ロラン・バルトは不遇な戦死者の子である。カミュの父は西部戦線の小戦闘で、バルトの父は漁船改造の哨戒艇の艇長として詳しい戦史に二行ばかり出てくる無名の小海戦で戦死している。


異議申立ての対象である「体制」とは「父的なもの」の総称である。「父なるもの」は「言語による専制」を意味するから、マルクス主義政党も含まれる道理である。もっとも、ここで「子どもは真の権威には反抗しない。反抗するのはバカバカしい権威 silly authority だけである」という精神科医サリヴァンの言葉を思い起こす。第二次大戦とそれに続く冷戦ほど言語的詐術が横行した時代はない。もっとも、その化けの皮は1960年代にすべて剥がれてしまった。(中井久夫「学園紛争は何であったのか」書き下ろし『家族の深淵』1995年)