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2025年8月27日水曜日

「私を泣かせてください」とキノコの匂の回帰

 

🎥

Couperin - Soeur Monique [Alberto Chines] 


このクープランにAlberto Chinesは次のような説明をつけている、


The title of this beautiful rondeau from Couperin's 18th Ordre can be quite ambiguous: it may refer to a sister in a convent, or the colloquial term "little sister" that was used in eighteenth-century France to describe a prostitute. Guess which one I chose!


「修道女モニク」じゃなくて「売春婦」かもと。


とすればヘンデルの「私を泣かせてください」だってそうだろうよ、


🎥

Händel - Lascia ch'io pianga [Alberto Chines, piano] 



僕はこの曲を聴くと、いつも死の匂がしてくるんだ、ーー《死は愛である [ la mort, c'est l'amour]》(Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)



Lesley Garrett - Lascia Chio Pianga




彼ぐらいの年じゃなくてもっと小さい頃だがね、



 トリュフォー『あこがれ』



要するにきのこの匂の回帰だ。



カビや茸の匂いーーこれからまとめて菌臭と言おうーーは、家への馴染みを作る大きな要素だけでなく、一般にかなりの鎮静効果を持つのではないか。すべてのカビ・キノコの匂いではないが、奥床しいと感じる家や森には気持ちを落ち着ける菌臭がそこはかとなく漂っているのではないか。それが精神に鎮静的にはたらくとすればなぜだろう。


菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。〔・・・〕


菌臭の持つ死ー分解への誘いは、腐葉土の中へふかぶかと沈みこんでゆくことへの誘いといえそうである。〔・・・〕

菌臭は、単一の匂いではないと思う。カビや茸の種類は多いし、変な物質を作りだすことにかけては第一の生物だから、実にいろいろな物質が混じりあっているのだろう。私は、今までにとおってきたさまざまの、それぞれ独特のなつかしい匂いの中にほとんどすべて何らかの菌臭の混じるのを感じる。幼い日の母の郷里の古い離れ座敷の匂いに、小さな神社に、森の中の池に。日陰ばかりではない。草いきれにむせる夏の休墾地に、登山の途中に谷から上がってくる風に。あるいは夜の川べりに、湖の静かな渚に。〔・・・〕


もっとも、それは過去の歴史の記憶だけだろうか。菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。公園に森があって彼らのために備えているのも、そのためかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年『家族の深淵』所収)



タナトスの形式の下でのエロス [Eρως [Éros]…sous  la forme du Θάνατος [Tanathos] ](Lacan, S20, 20 Février 1973)

リビドーは愛の欲動である[Libido est Liebestriebe](フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)

リビドーはそれ自体、死の欲動である[La libido est comme telle pulsion de mort](J.-A. Miller,  LES DIVINS DÉTAILS, 3 mai 1989)



カタローニア女のヌリア・リアルのキノコもきっととってもいいよ(Nuria Rial - Rinaldo, Lascia ch'io pianga)ーー《ふたたび私はそのかおりのなかにいた。かすかに腐敗臭のまじる甘く重たく崩れた香りーー、それと気づけばにわかにきつい匂いである。》(中井久夫「世界における索引と徴候」)



これからこのクープランからも匂がしてきそうだよ(France Ellegaard: François Couperin: Soeur Monique



においを嗅ぐ悦[Riechlust]のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている[alte Sehnsucht nach dem Unteren fort, nach der unmittelbaren Vereinigung mit umgebender Natur, mit Erde und Schlamm]。対象化することなしに魅せられるにおいを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動[Drang]について、証するものである。だからこそにおいを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり――両者は実際の行為のうちでは一つになる――、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人であることにとどまっているが、嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう[Im Sehen bleibt man, wer man ist, im Riechen geht man auf. ]。だから文明にとって嗅覚は恥辱[Geruch als Schmach]であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。文明人にはそういう悦[Lust]に身をまかせることは許されないのだ。(アドルノ&ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』第5章、1947年)


僕はひどい下層民でね、



隣のテーブルにいる女の匂[l'odeur de la femme qui était à la table voisine]…それらの顔は、私にとって、節操のかたいこちこちの女だとわかっているような女の顔よりもばるかに好ましいのであって、後者に見るような、平板で深みのない、うすっぺらな一枚張のようなしろものとは比較にならないように思われた。〔・・・〕それらの顔は、ひらかれない扉であった[ces visages restaient fermés]。しかし、それらの顔が、ある価値をもったものに見えてくるためには、それらの扉がやがてひらかれるであろうことを知るだけで十分なのである・・・ (プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)


ネットというのはにおいがないからいけないんだよ、



におい 飯島耕一


五月の雨の日

西荻窪の駅のホームのベンチに坐っていると

隣に一人の若い女が坐り

大学の紀要のようなものを

読みはじめる

アメリカ問題の論文で

筆者は女性の名だ

この若い女の名

かもしれない


雨のせいか

そのみしらぬ女の

実にあまい体臭が

こちらに ただよってくる

苦しいほどの 女の 肉体の

におい

衿にこまかい水玉のネッカチーフをまいている

レインコートを着ている

人間の女のにおい


ようやく下りの電車が入ってきた

顔はとうとう見ることができず

別の車輛に乗った

もう二度と会うこともないか


これが東京だ

人生のにおい

論文なんか 読むのはやめたら

という 一語

をささやいてやるべきだった。







ずっとわたしは待っていた。

わずかに濡れた

アスファルトの、この

夏の匂いを、

たくさんをねがったわけではない。

ただ、ほんのすこしの涼しさを五官にと。

奇跡はやってきた。

ひびわれた土くれの、

石の呻きのかなたから。


ーーダヴィデ・マリア・トゥロルド(須賀敦子訳)