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2025年10月3日金曜日

剰余享楽は欲動の昇華のこと

 

あのね、「剰余享楽」は、ネット上で垣間見る範囲でいろんな事ーー「誤謬」?ーーを言っている人がいるけど、フロイトの「快の獲得」のことだよ。


快の獲得[Lustgewinn]、それはまったく明瞭に、私の「剰余享楽 」である[Lustgewinn… à savoir, tout simplement mon « plus-de jouir ».](Lacan, S21, 20 Novembre 1973)


で、快の獲得とは欲動断念に伴う代理満足だ。

欲動断念は、避け難い不快な結果のほかに、自我に、ひとつの快の獲得を、言うならば代理満足をも齎す[der Triebverzicht…Er bringt außer der unvermeidlichen Unlustfolge dem Ich auch einen Lustgewinn, eine Ersatzbefriedigung gleichsam.](フロイト『モーセと一神教』3.2.4  Triebverzicht、1939年)


欲動断念つまり享楽断念であり、これが剰余享楽としての対象aだ(享楽自体としての対象aもあるので注意)。

対象aの用語が導入されるのは、享楽の断念 [la renonciation à la jouissance]の機能に関する言説の中でである。言説の影響下でのこの断念の機能としての剰余享楽は、対象aにその場所を与える[C'est dans le discours sur la fonction de la renonciation à la jouissance que s'introduit le terme de l'objet(a).  Le plus-de-jouir comme fonction de cette renonciation sous l'effet du discours, voilà qui donne sa place à l'objet(a).   ] (Lacan, S16, 13  Novembre  1968)


で、この快の獲得が欲動の昇華でもある。

われわれの心的装置が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること、これによってわれわれの心的装置の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにする。この目的のためには、欲動の昇華[ Sublimierung der Triebe]が役立つ。一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快の獲得[Lustgewinn]を充分に高めることに成功する場合である。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第2章、1930年)


ーー《間違いなくラカン的な意味での昇華の対象は、厳密に剰余享楽の価値である[au sens proprement lacanien, des objets de la sublimation.… : ce qui est exactement la valeur du terme de plus-de-jouir ]》(ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller,  L'Autre sans Autre May 2013)



とはいえ、昇華は十分にはなされないというのが、フロイト・ラカンの捉え方でもある。


抑圧された欲動は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進む」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)


もう少し詳しくはーー今まで種々記してきたつもりだがーー、一般の人には、3年ほど前のメモ置き場のほうの投稿「享楽と剰余享楽」は「欲動と欲動の昇華」」が、たぶん一番わかりやすいと思うよ、当面、是非参照されたし。