あのね、「剰余享楽」は、ネット上で垣間見る範囲でいろんな事ーー「誤謬」?ーーを言っている人がいるけど、フロイトの「快の獲得」のことだよ。 |
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快の獲得[Lustgewinn]、それはまったく明瞭に、私の「剰余享楽 」である[Lustgewinn… à savoir, tout simplement mon « plus-de jouir ».](Lacan, S21, 20 Novembre 1973) |
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で、快の獲得とは欲動断念に伴う代理満足だ。 |
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欲動断念は、避け難い不快な結果のほかに、自我に、ひとつの快の獲得を、言うならば代理満足をも齎す[der Triebverzicht…Er bringt außer der unvermeidlichen Unlustfolge dem Ich auch einen Lustgewinn, eine Ersatzbefriedigung gleichsam.](フロイト『モーセと一神教』3.2.4 Triebverzicht、1939年) |
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欲動断念つまり享楽断念であり、これが剰余享楽としての対象aだ(享楽自体としての対象aもあるので注意)。 |
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対象aの用語が導入されるのは、享楽の断念 [la renonciation à la jouissance]の機能に関する言説の中でである。言説の影響下でのこの断念の機能としての剰余享楽は、対象aにその場所を与える[C'est dans le discours sur la fonction de la renonciation à la jouissance que s'introduit le terme de l'objet(a). Le plus-de-jouir comme fonction de cette renonciation sous l'effet du discours, voilà qui donne sa place à l'objet(a). ] (Lacan, S16, 13 Novembre 1968) |
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で、この快の獲得が欲動の昇華でもある。 |
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われわれの心的装置が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること、これによってわれわれの心的装置の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにする。この目的のためには、欲動の昇華[ Sublimierung der Triebe]が役立つ。一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快の獲得[Lustgewinn]を充分に高めることに成功する場合である。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第2章、1930年) |
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ーー《間違いなくラカン的な意味での昇華の対象は、厳密に剰余享楽の価値である[au sens proprement lacanien, des objets de la sublimation.… : ce qui est exactement la valeur du terme de plus-de-jouir ]》(ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, L'Autre sans Autre May 2013) とはいえ、昇華は十分にはなされないというのが、フロイト・ラカンの捉え方でもある。
もう少し詳しくはーー今まで種々記してきたつもりだがーー、一般の人には、3年ほど前のメモ置き場のほうの投稿➤「「享楽と剰余享楽」は「欲動と欲動の昇華」」が、たぶん一番わかりやすいと思うよ、当面、是非参照されたし。 |