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2025年11月15日土曜日

高市早苗の風刺画とトムとジェリーの話

 


ははあ、よくできた風刺漫画だ、ジジェクのトムとジェリーの話を思い出したよ。


たとえばニュートンの有名なリンゴは重力の法則を知っていたから落ちたのだ、などという言い方は馬鹿げているとしか思われない。しかしながら、仮にそうした言い方がただの無内容な洒落だったとしても、われわれは、そうした発想がどうしてこれほど頻繁にコミックスやアニメの中に登場するのか、という疑問をもたねばならない。


猫が、前方に断崖があるのも知らず、必死にネズミを追いかけている。ところが、足元の大地が消え去った後もなお、猫は落下せずにネズミを追いかけ続ける。猫が下を見て、自分が空中に浮かんでいることを見た瞬間、猫は落ちる。まるで現実界が一瞬、どの法則に従うべきかを忘れたかのようだ。猫が下を見た瞬間、現実界はその法則を「思い出し」、それにしたがって行動する。


こうした場面が繰り返し作られるのは、それらがある種の初歩的な幻想のシナリオに支えられているからにちがいない。この推量をさらに一歩すすめるならば、フロイトが『夢判断』の中で挙げている、自分が死んだことを知らない父親という有名な夢の例にも、これと同じパラドックスが見出される。アニメの猫が、自分の足の下に大地がないことを知らないがゆえに走り続けるのと同じように、その父親は、自分が死んだことを知らないがゆえに今なお生きているのである。


三つ目の例を挙げよう。それはエルバ島におけるナポレオンだ。歴史的には彼はすでに死んでいた(すなわち彼の出る幕は閉じ、彼の役割は終わっていた)が、自分の死に気づいていないことによって彼はまだ生きていた(まだ歴史の舞台から下りていなかった)。だからこそ彼はワーテルローで再び敗北し、「二度死ぬ」はめになったのである。ある種の国家あるいはイデオロギー装置に関して、われわれはしばしばそれと同じような感じを抱く。すなわち、それらは明らかに時代錯誤的であるのに、そのことを知らないためにしぶとく生き残る。誰かが、この不愉快な事実をそれらに思い出させるという無礼な義務を引き受けなくてはならないのだ。(ジジェク『 斜めから見る』1990年)




で、この文脈のなかで次の文も読むことができる。



いくつかの公文書や回想録によると、1970年代半ば、チトー(ユーゴスラヴィアの大統領)は、チトーの側近たちはユーゴスラヴィアの経済が壊滅的であることを知っていた。しかし、チトーに死期が迫っていたため、側近たちはかたらって危険の勃発をチトーの死後まで先延ばしにすることに決めた。その結果、チトーの晩年には外国からの借款が休息に膨れ上がり、ユーゴスラヴィアは、ヒッチコックの『サイコ』に出てくる裕福な銀行家の言葉を借りれば、金の力で不幸を遠ざけていた。1980年にチトーが死ぬと、ついに破滅的な経済危機が勃発し、生活水準は40パーセントも下落し、民族間の緊張が高まり、そして民族間紛争がとうとう国を滅ぼした。適切に危機に対処すべきタイミングを逃したせいだ。ユーゴスラヴィアにとって命取りとなったのは、指導者に何も知らせず、幸せなまま死なせようという側近たちの決断だったといってもいい。


これこそが究極の「文化」ではなかろうか。文化の基本的規則のひとつは、いつ、いかにして、知らない(気づかない)ふりをし、起きたことがあたかも起きなかったかのように行動し続けるべきかを知ることである。私のそばにいる人がたまたま不愉快な騒音を立てたとき、私がとるべき正しい対応は無視することであって、「わざとやったんじゃないってことはわかっているから、心配しなくていいよ、全然大したことじゃないんだから」などと言って慰めることではない。……(文化が科学に敵対するのはこの理由による。科学は知への容赦ない欲動に支えられているが、文化とは知らない/気づいていないふりをすることである)。


この意味で、見かけに対する極端な感受性をもつ日本人こそが、ラカンのいう〈大文字の他者〉の国民である。日本人は、他のどの国民よりも、仮面のほうが仮面の下の現実よりも多くの真理を含むことをよく知っている。(ジジェク『ラカンはこう読め』「日本語版への序文」2006年)



《見かけに対する極端な感受性をもつ日本人こそが、ラカンのいう〈大文字の他者〉の国民である。日本人は、他のどの国民よりも、仮面のほうが仮面の下の現実よりも多くの真理を含むことをよく知っている》とはロラン・バルトの日本旅行記に関わる。



ロラン・バルトは日本の主体が無への覆い(風呂敷)以外の何ものでもないという陶酔的感覚を与えた。彼は自らのエッセーを 『表徴の帝国( L'Empire des signes)』(新訳邦題『記号の国』)と題しているが、 それは 『見せかけの帝国(l'empire des semblants)』を意味する。

C'est sans doute ce qui a donné à Roland Barthes ce sentiment enivré que de toutes ses manières le sujet japonais ne fait enveloppe à rien. L'Empire des signes, intitule-t-il son essai voulant dire : empire des semblants.

(ラカン『リチュラテール(Lituraterre)』 AE19, 1971 年)

主体がおのれの根源的同一化として、 唯一の徴にだけではなく、 星座でおおわれた天空にも支えられることは、主体が「おまえ le Tu」によってしか支えられないことを説明する。「おまえ 」によってというのは、 つまり、 あるゆる言表が自らのシニフィエの裡に含む礼儀作法の関係[relations de politesse]によって変化するようなすべての文法的形態のもとでのみ、主体は支えられるということである。日本語では真理は、私がそこに示すフィクションの構造を、このフィクションが礼儀作法の法[lois de la politesse]のもとに置かれていることから、強化している。

…le statut du sujet. Qu'il s'appuie sur un ciel constellé, et non seulement sur le trait unaire, pour son identification fondamentale, explique qu'il ne puisse prendre appui que sur le Tu, c'est-à-dire sous toutes les formes grammaticales dont le moindre énoncé se varie des relations de politesse qu'il implique dans son signifié. La vérité y renforce la structure de fiction que j'y dénote, de ce que cette fiction soit soumise aux lois de la politesse.

(Lacan,  Lituraterre, Autres Écrits19, 1971年)



上でラカンが「唯一の徴」と言っているのは、フロイトの自我理想の機能である。ーー《唯一の徴は、自我理想を形成する同一化のなかに主体を疎外する[le trait unaire qui,… aliène ce sujet dans l'identification première qui forme l'idéal du moi]》 (ラカン, E808, 1960)



原初的な集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である[Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben].(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年)



そして先のラカンの言っていることは、日本ではこの自我理想の代わりに礼儀作法の法が国民集団の結合機能の役割を果たしているのではないか、ということである。これは事実上、次の森有正・柄谷行人・中井久夫・加藤周一のいう二人称関係の法である。

実は私、日本語全体がこういう意味で敬語だと思うのです。〔・・・〕

何か日本語でひとこと言った場合に、必ずその中には自分と相手とが同時に意識されている。と同時に自分も相手によって同じように意識されている。だから「私」と言った場合に、あくまで特定の「私」が話しかけている相手にとっての相手の「あなた」になっている。〔・・・〕私も実はあなたのあなたになって、ふたりとも「あなた」になってしまうわけです。これを私は日本語の二人称的性格と言います。ですから、私は日本語には根本的には一人称も三人称もないと思うんです。(森有正『経験と思想』1977年)

日本語は、つねに語尾において、話し手と聞き手の「関係」を指示せずにおかないからであり、またそれによって「主語」がなくても誰のことをさすかを理解することができる。それはたんなる語としての敬語の問題ではない。時枝誠記が言うように、日本語は本質的に「敬語的」なのである。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』1980年)


つまり日本文化は汝文化、二人称文化である。

「私」が発言する時、その「私」は「汝」にとっての「汝」であるという建て前から発言しているのである。日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである。(森有正『経験と思想』1977年)

いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。(中井久夫「日本語の対話性」2002年『時のしずく』所収)

日本語文法が反映しているのは、世界の時間的構造、過去・現在・未来に分割された時間軸上にすべての出来事を位置づける世界秩序ではなくて、話し手の出来事に対する反応、命題の確からしさの程度ということになろう。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)


そして二項関係の法の国では次の事態が起こる。

二項論理の場では、私か他者のどちらかの選択肢しかない。したがってエディプス的状態(三項関係)が象徴的に機能していない事実を示している[a dualistic logic where there is a choice of either me or the other, and thus points to the fact that the oedipal situation has not been worked through symbolically.] (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)



高市早苗や政権中枢部に限らず、日本文化は、あるいは日本の国民集団は、この二者関係に囚われているのではないか、と少なくとも疑ったほうがよい。例えば、空気を読む文化自体、人間関係の二者関係構造のせいではないか、とーー《日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。》(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」2013年)