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前回の補足として言うがね、ま、誰にでも間違いはあるよ。大半の人は、原発事故報道で騙され、アベノミクスで騙され、コロナワクチンで騙され、宇露戦争で騙されてきたわけでね。 人は愚かなものだよ。 |
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なかには例外的に聡明な個体も混じってはいるが、これからこの文章を書こうとしているわたくし自身もその一員であるところの人類というものは、国籍、性別、年齢の違いにもかかわらず、おしなべて「愚かなもの」であるという経験則を強く意識してからかなりの時間が経っているので、その「愚かさ」にあえて苛立つこともなく晩期高齢者としての生活をおしなべて平穏に過ごしている。蓮實重彥『些事へのこだわり』2024年1月18日) |
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とはいえ、たまには自らの愚かさを振り返らないとな、オレ、なんであんなバカなこと信じたんだろ、とさ。 自らの道化ぶりを笑い飛ばさないとな。 |
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われわれは時折、われわれから離れて休息しなければならないーー自分のことを眺めたり見下ろしたり、芸術的な遠方[künstlerischen Ferne]から、自分を笑い飛ばしたり嘆き悲しんだりする [über uns lachen oder über uns weinen] ことによってーー。われわれは、われわれの認識の情熱の内に潜む英雄と同様に、道化をも発見しなければならない。 われわれは、われわれの知恵を楽しみつづけることができるためには、 われわれの愚かしさをも時として楽しまなければならない!(ニーチェ『悦ばしき知』第107番、1882年) |
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そうでないといつまでも騙され続けるぜ。今なら積極財政リフレ派、つまりサナエノミクスと台湾有事だな。 |
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特にこれだけはやめとかないとな、 |
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「わかりたいあなた」たちにとっては、わかったかわからないかを真剣に問うことよりも、なるべくスピーディーかつコンビニエントに、わかったつもりになれて(わかったことに出来て)、それについて「語(れ)ること」の方がずっと重要なのです。(佐々木敦『ニッポンの思想』2009年) |
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スピーディーかつコンビニエントにわかったつもりになるってのは、こういうことだよ。 |
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浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」) |
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今のSNSの時代、こればっかりだから「騙され度」がきわめて高くなっちまったんだよ。 |
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特にデマゴギーをコンビニエントに信じまってさ。 |
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人がデマゴギーと呼ぶところのものは、決してありもしない嘘出鱈目ではなく、物語への忠実さからくる本当らしさへの執着にほかならぬ〔・・・〕。人は、事実を歪曲して伝えることで他人を煽動しはしない。ほとんど本当に近い嘘を配置することで、人は多くの読者を獲得する。というのも、人が信じるものは語られた事実ではなく、本当らしい語り方にほかならぬからである。デマゴギーとは、物語への恐れを共有しあう話者と聴き手の間に成立する臆病で防禦的なコミュニケーションなのだ。ブルジョワジーと呼ばれる階級がその秩序の維持のためにもっとも必要としているのは、この種のコミュニケーションが不断に成立していることである。(蓮實重彥『凡庸な芸術家の肖像』1988年) |
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ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彥『凡庸な芸術家の肖像』1988年) |
ま、こういうことを記しても「ほとんど」無駄だってことは知らないわけじゃないがね。繰り返せば、《浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。》ーー特にツイッター社交界の伝染力は並々ならぬものがあるからな。