この世の関節がはずれてしまったのだ。なんの因果か、
それを直す役目を押しつけられるとは!
The time is out of joint: O cursed spite,
That ever I was born to set it right,(Hamlet 1.5.189-190)
ーーシェイクスピア『ハムレット』第1幕第5場 福田恆存訳)
人間のふるさとはアモラルだと観念すれば、いま世界で起こっていることは「ある意味で」止むえない気になってこないでもない。つまり文明制度のタガが外れただけだと諦念に襲われないでもない。とはいえどこかにハムレットはいないもんかね
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◼️安吾のアモラル |
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シャルヽ・ペローの童話に「赤頭巾」といふ名高い話があります。既に御存知とは思ひますが、荒筋を申上げますと、赤い頭巾をかぶつてゐるので赤頭巾と呼ばれてゐた可愛い少女が、いつものやうに森のお婆さんを訪ねて行くと、狼がお婆さんに化けてゐて、赤頭巾をムシャ〳〵食べてしまつた、といふ話であります。まつたく、たゞ、それだけの話であります。 童話といふものには大概教訓、モラル、といふものが有るものですが、この童話には、それが全く欠けてをります。それで、その意味から、アモラルであるといふことで、仏蘭西では甚だ有名な童話であり、さういふ引例の場合に、屡々引合ひに出されるので知られてをります。〔・・・〕 愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さといふものが何もない可憐な少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行つて、お婆さんに化けて寝てゐる狼にムシャ〳〵食べられてしまふ。 私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違つたやうな感じで戸惑ひしながら、然し、思はず目を打たれて、プツンとちよん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでせうか。〔・・・〕 |
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そこで私はかう思はずにはゐられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、といふこと、それは文学として成立たないやうに思はれるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのやうでなければならぬ崖があつて、そこでは、モラルがない、といふこと自体がモラルなのだ、と。〔・・・〕 生存の孤独とか、我々のふるさとゝいふものは、このやうにむごたらしく、救ひのないものでありませうか。私は、いかにも、そのやうに、むごたらしく、救ひのないものだと思ひます。この暗黒の孤独には、どうしても救ひがない。我々の現身は、道に迷へば、救ひの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷ふだけで、救ひの家を予期すらもできない。さうして、最後に、むごたらしいこと、救ひがないといふこと、それだけが、唯一の救ひなのであります。モラルがないといふこと自体がモラルであると同じやうに、救ひがないといふこと自体が救ひであります。 |
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私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。 アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。…… だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのように信じています。(坂口安吾『文学のふるさと』1941年) |
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安吾にとって道徳自体が通俗道徳である。 |
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すべて世の謹厳なる道徳家だの健全なる思想家などといふものは例外なしに贋物と信じて差支へはない。本当の倫理は健全ではないものだ。そこには必ず倫理自体の自己破壊が行はれてをり、現実に対する反逆が精神の基調をなしてゐるからである。(坂口安吾「デカダン文学論」1946年) |
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芸術は「通俗」であつてはならぬが、いかほど「俗悪」であつてもよい。人間自体が俗悪なものだからである。むしろ俗悪に徹することだ。素朴や静寂に徹するよりも、俗悪に徹することは、はるかに困難な大事業だ。そこには人の全心全霊のあらゆる力が賭けられることを必要とする。その道は自爆以外にないのである。(坂口安吾「通俗と変貌と」1947年) |
ーー後にニーチェにもいくらか触れるが、ここでは当面次の文を掲げておく、《通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭…[Allerwelts-Philosophen, den Moralisten und andren Hohltöpfen, Kohlköpfen…]〔・・・〕完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫っかぶりども[Die vollkommen lasterhaften ”Geister”, die ”schönen Seelen”, die in Grund und Boden Verlognen ]》(ニーチェ『この人を見よ』1888年)
さて次はフロイトのアモラルである。
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◼️フロイトのアモラル |
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エスはまったくアモラル(非道徳)であり、自我は道徳的であるように努力する[Das Es ist ganz amoralisch, das Ich ist bemüht, moralisch zu sein](フロイト『自我とエス』第5章、1923年) |
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自我は自分の家の主人ではない [das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus](フロイト『精神分析入門』第18講、1917年) |
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自我はただ単にエスの助力者であるだけでなく、エスに服従する下男である[Es (das Ich) ist nicht nur der Helfer des Es, auch sein unterwürfiger Knecht, der um die Liebe seines Herrn wirbt.」 (フロイト『自我とエス』第5章、1923年) |
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エスはもちろん欲動である、《エス(欲動生活) [Es (Trieblebens)]》(フロイト『神経症および精神病における現実の喪失』1924) |
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エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年) |
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自我に飼い馴らされていない荒々しい欲動蠢動を満足させたことから生まれる幸福感は、家畜化された欲動を満たした場合とは比較にならぬほど強烈である[Das Glücksgefühl bei Befriedigung einer wilden, vom Ich ungebändigten Triebregung ist unvergleichlich intensiver als das bei Sättigung eines gezähmten Triebes. ](フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年) |
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上のフロイト文は、ニーチェの力への意志の定義文と事実上、等価である。 |
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私は、ギリシャ人たちの最も強い本能、力への意志を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力」に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための保護手段から生じたものであることを見てとった。 In den Griechen…IIch sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen. (ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第3節『偶然の黄昏』所収、1888) |
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すべての欲動の力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない[Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt]...(ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888) |
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つまりニーチェの力への意志 [Wille zur Macht]はフロイトのエスの意志[Willen des Es]である。 |
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自我の機能上の重要さは、正常な場合は、運動への通路の支配が、自我にゆだねられるという点に現われている。自我の、エスにたいする関係は、奔馬を統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志[Willen des Es]を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。 Die funktionelle Wichtigkeit des Ichs kommt darin zum Ausdruck, daß ihm normalerweise die Herrschaft über die Zugänge zur Motilität eingeräumt ist. Es gleicht so im Verhältnis zum Es dem Reiter, der die überlegene Kraft des Pferdes zügeln soll, mit dem Unterschied, daß der Reiter dies mit eigenen Kräften versucht, das Ich mit geborgten. Dieses Gleichnis trägt ein Stück weiter. Wie dem Reiter, will er sich nicht vom Pferd trennen, oft nichts anderes übrigbleibt, als es dahin zu führen, wohin es gehen will, so pflegt auch das Ich den Willen des Es in Handlung umzusetzen, als ob es der eigene wäre. (フロイト『自我とエス』第2章、1923年) |
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以下、補足しておこう。 ❖フロイトのエス(欲動)とニーチェのエス |
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人間のもっとも深い本質はもろもろの欲動活動にあり、この欲動活動は原始的性格をそなえていて、すべてのひとびとにおいて同質であり、ある種の根源的な欲求の充足をめざすものである[daß das tiefste Wesen des Menschen in Triebregungen besteht, die elementarer Natur, bei allen Menschen gleichartig sind und auf die Befriedigung gewisser ursprünglicher Bedürfnisse zielen. ]〔・・・〕 戦争は、より後期に形成された文化的層をはぎ取り、われわれのなかにある原人間を再び出現させる[Krieg …Er streift uns die späteren Kulturauflagerungen ab und läßt den Urmenschen in uns wieder zum Vorschein kommen. ](フロイト『戦争と死に関する時評』Zeitgemasses über Krieg und Tod, 1915年) |
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人の発達史と人の心的装置において、〔・・・〕原初はすべてがエスであったのであり、自我は、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態に変わり、そうして自我に取り入れられた。他のものはエスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核として置き残される[die Entwicklungsgeschichte der Person und ihres psychischen Apparates […] Ursprünglich war ja alles Es, das Ich ist durch den fortgesetzten Einfluss der Aussenwelt aus dem Es entwickelt worden. Während dieser langsamen Entwicklung sind gewisse Inhalte des Es in den vorbewussten Zustand gewandelt und so ins Ich aufgenommen worden. Andere sind unverändert im Es als dessen schwer zugänglicher Kern geblieben. ](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第4章、1939年) |
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ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我と呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」と。Ich meine G. Groddeck, der immer wieder betont, daß das, was wir unser Ich heißen, sich im Leben wesentlich passiv verhält, daß wir nach seinem Ausdruck » gelebt« werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächten. 〔・・・〕 私は、知覚体系Wに由来する本質ーーそれはまず前意識的であるーーを自我と名づけ、精神の他の部分ーーそれは無意識的であるようにふるまうーーをグロデックの用語にしたがってエスと名づけるように提案する。 Ich schlage vor, ihr Rechnung zu tragen, indem wir das vom System W ausgehende Wesen, das zunächst vbw ist, das Ich heißen, das andere Psychische aber, in welches es sich fortsetzt und das sich wie ubw verhält, nach Groddecks Gebrauch das Es. グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがとてもしばしば使われている。 Groddeck selbst ist wohl dem Beispiel Nietzsches gefolgt, bei dem dieser grammatikalische Ausdruck für das Unpersönliche und sozusagen Naturnotwendige in unserem Wesen durchaus gebräuchlich ist(フロイト『自我とエス』第2章、1923年) |
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いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。 ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?おお、人間よ、よく聴け! - nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht! - hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年) |
以上、安吾のアモラルはフロイトだけでなく、ニーチェにも結びつくのがおわかりになった筈である。
もっとも安吾は次のようにも記していることを再度強調しておこう、ーー《むごたらしいこと、救ひがないといふこと、それだけが、唯一の救ひなのであります。モラルがないといふこと自体がモラルであると同じやうに、救ひがないといふこと自体が救ひであります。/私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。/アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……/だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのように信じています》。
これはフロイトにおいてもニーチェにおいてもーーここではその内実に触れないがーー同様である。
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ここでは冒頭に戻って、こう言っておくだけにする、ーー世界の関節をはめなおすにはどんな道具が必要なんだろ?と。 |
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世界はまちがいもなく脱臼してしまっている。暴力的な動きによってのみ、それをふたたびはめ込むことができる。ところが、それに役立つ道具のうちには、ひとつ、小さく、弱くて、軽やかに扱ってやらなきゃならないものがあるはずだ。(ブレヒト『真鍮買い』) |
※このブレヒトは『彼自身によるロラン・バルト』からの孫引き。« Le monde est à coup sûr sorti de ses gonds, seuls des mouvements violents peuvent tout réemboîter. Mais il se peut que, parmi les instruments servant à cela, il y en ait un petit, fragile, qui réclame qu'on le manipule avec légèreté. » (Brecht, l'Achat du cuivre.)