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2026年4月28日火曜日

道化の鈴つき帽子

 

少し休憩するよ、ボクはいささか文化的な「悪癖」があるからな、ーー《文化的成熟とは、みずからを批判し、みずからを笑うことのできる能力である。》(加藤周一「歴史の見方」 1986



われわれは時折、われわれから離れて休息しなければならないーー自分のことを眺めたり見下ろしたり、芸術的な遠方から、自分を笑い飛ばしたり嘆き悲しんだりする ことによってーー。われわれは、われわれの認識の情熱の内に潜む英雄と同様に、道化をも発見しなければならない。 われわれは、われわれの知恵を楽しみつづけることができるためには、 われわれの愚かしさをも時として楽しまなければならない! われわれは、究極のところ、重苦しい、生真面目な人間であり、人間というよりか、むしろ重さそのものなのだから、まさにそのためにこそ、道化の鈴つき帽子ほど、われわれに役立つものはない。

Wir müssen zeitweilig von uns ausruhen, dadurch, daß wir auf uns hin und hinab sehen und, aus einer künstlerischen Ferne her, über uns lachen oder über uns weinen: wir müssen den Helden und ebenso den Narren entdecken, der in unsrer Leidenschaft der Erkenntnis steckt, wir müssen unsrer Torheit ab und zu froh werden, um unsrer Weisheit froh bleiben zu können! Und gerade weil wir im letzten Grunde schwere und ernsthafte Menschen und mehr Gewichte als Menschen sind, so tut uns nichts so gut als die Schelmenkappe:

(ニーチェ『悦ばしき知』第107番、1882年)



道化の鈴つき帽子はきわめて大事だろうよ、ーー《たぶん私が一番よく知っている、なぜ人間だけが笑うのかを。人間のみがひどく傷ついているので、笑いを発明しなければならなかったのである。Vielleicht weiß ich am besten, warum der Mensch allein lacht: er allein leidet so tief, daß er das Lachen erfinden mußte.》(ニーチェ遺稿ーー『力への意志』Der Wille zur Macht I - Kapitel 10-91

ボクは可能な限り、この数年のあいだ応援してきたのだがな、世界の覇権や、日本の権力に対して批判精神旺盛な人物たちを。とはいえ彼らとて時にとっても臭いね

およそあらゆる人間の運命のうち最も苛酷な不幸は、地上の権力者が同時に第一級の人物ではないことだ。そのとき一切は虚偽となり、ゆがんだもの、奇怪なものとなる。


権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ!」とーー。


ああ、あの絶叫漢、文筆の青蝿、小商人の悪臭、野心の悪あがき、くさい息、ああ、たまらない厭わしさだ、賤民のあいだに生きることは。ああ、嘔気、嘔気、嘔気!

Es gibt kein härteres Unglück in allem Menschen-Schicksale, als wenn die Mächtigen der Erde nicht auch die ersten Menschen sind. Da wird alles falsch und schief und ungeheuer.

Und wenn sie gar die letzten sind und mehr Vieh als Mensch: da steigt und steigt der Pöbel im Preise, und endlich spricht gar die Pöbel-Tugend: ›siehe, ich allein bin Tugend!‹« –(…) 

allen diesen Schreihälsen und Schreib-Schmeissfliegen, dem Krämer-Gestank, dem Ehrgeiz-Gezappel, dem üblen Athem -: pfui, unter dem Gesindel leben,  - pfui, unter dem Gesindel die Ersten zu bedeuten! Ach, Ekel! Ekel! Ekel!

(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「王たちとの会話」1885年)



ニーチェほど鋭敏な嗅覚があるとは微塵も思っていないが、やっぱり悪臭に堪らなくなることがあるよ


わたし以前に、哲学者中の誰が心理学者であったか。彼らはむしろその反対の者、「高等詐欺師」「理想主義者」であったのではないか? わたし以前には心理学というものはまだまったく存在しなかったのだ。――こういう点において最初の人間であることは呪いでありうる。いずれにしても、それは運命である。なぜなら軽蔑することにかけても最初の人間であるのだから人間に対する嘔き気、これがわたしの危険である・・・

Wer war überhaupt vor mir unter den Philosophen Psycholog und nicht vielmehr dessen Gegensatz »höherer Schwindler«, »Idealist«? Es gab vor mir noch gar keine Psychologie. – Hier der Erste zu sein kann ein Fluch sein, es ist jedenfalls ein Schicksal: denn man verachtet auch als der Erste... Der Ekel am Menschen ist meine Gefahr...

(ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私は一個の運命であるのか」第6節、1888年)



最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……


わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗り(育ち)によって隠れている。


そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……

Darf ich noch einen letzten Zug meiner Natur anzudeuten wagen, der mir im Umgang mit Menschen keine kleine Schwierigkeit macht? Mir eignet eine vollkommen unheimliche Reizbarkeit des Reinlichkeits-Instinkts, so daß ich die Nähe oder – was sage ich? – das Innerlichste, die »Eingeweide« jeder Seele physiologisch wahrnehme – rieche... Ich habe an dieser Reizbarkeit psychologische Fühlhörner, mit denen ich jedes Geheimnis betaste und in die Hand bekomme: der viele verborgene Schmutz auf dem Grunde mancher Natur, vielleicht in schlechtem Blut bedingt, aber durch Erziehung übertüncht, wird mir fast bei der ersten Berührung schon bewußt. Wenn ich recht beobachtet habe, empfinden solche meiner Reinlichkeit unzuträgliche Naturen die Vorsicht meines Ekels auch ihrerseits: sie werden damit nicht wohlriechender... 

(ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢いのか」第8節、1888年)



ま、安心したらいいさ、ニーチェにとっては次の賢者たちでさえ臭いらしいからな


私の我慢ならない者ども。 ――セネカ、すなわち、徳の闘牛士。 ――ルソー、すなわち、不純な自然的なものというかたちをとった自然への復帰。 ――シラー、すなわち、ゼッキンゲンの道徳のラッパ手。 ――ダンテ、すなわち、墓穴のなかで詩をつくる鬣狗。 ――カント、すなわち、英知的知性としての偽善的口調 cant ――ヴィクトル・ユゴー、すなわち、無意味の大海のほとりに立つ大灯台。 ――リスト、すなわち、流麗さの学校 ――ご婦人たちによれば。 ――ジョルジュ・サンド、すなわち、乳のはった豊満、平たく言えば、「美しいスタイル」の乳牛。 ――ミシュレ、すなわち、上衣を脱ぎすてる感激。 ――カーライル、すなわち、辞退した昼食としてのペシミズム。 ――ジョン・スチワート・ミル、すなわち、侮辱的な明晰さ。 ――ゴングール兄弟、すなわち、ホメロスと戦う二人のアイアス。オッフェンバックの音楽。 ――ゾラ、すなわち、「悪臭を発する歓び。」 ーー

Meine Unmöglichen. - Seneca: oder der Toreador der Tugend. - Rousseau: oder die Rückkehr zur Natur in impuris naturalibus. - Schiller: oder der Moral-Trompeter von Säckingen. - Dante: oder die Hyäne, die in Gräbern dichtet. - Kant: oder cant als intelligibler Charakter. -Victor Hugo: oder der Pharus am Meere des Unsinns. - Liszt: oder die Schule der Geläufigkeit - nach Weibern. - George Sand: oder lactea ubertas, auf deutsch: die Milchkuh mit "schönem Stil". - Michelet: oder die Begeisterung, die den Rock auszieht… Carlyle: oder Pessimismus als zurückgetretenes Mittagessen. - John Stuart Mill: oder die beleidigende Klarheit. - Les fréres de Goncourt: oder die beiden Ajaxe im Kampf mit Homer. Musik von Offenbach. - Zola: oder die Freude zu stinken. -

(ニーチェ「或る反時代的な人間の遊撃」第1節、『偶像の黄昏』所収、1888年)



ボクの感度の劣った鼻で感じるのはせいぜいキミたちの内臓だよ、ーーと指摘してもキミたちの香りがよくなってくるわけではないのだろうがね。


・・・なにはともあれ、バルトのように「常に」ではまったくないが、巷間の「科学的な」人の囀りをきいていると、時にニーチェが遠くからやってくるんだ、ーー《常にニーチェを思う。私たちは、繊細さの欠如によって科学的となるのだ[Toujours penser à Nietzsche : nous sommes scientifiques par manque de subtilité. ]》(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)


ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう[Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden.](フロイト、於ウィーン精神分析協会会議1908 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung



ボクの場合、キミらの悪臭を嗅ぐのは過去の自分の臭いを嗅ぐようなもんだからな、いっそう吐き気がするんだ。

人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 

Habituellement, on déteste ce qui nous est semblable, et nos propres défauts vus du dehors nous exaspèrent. Combien plus encore quand quelqu'un qui a passé l'âge où on les exprime naïvement et qui, par exemple, s'est fait dans les moments les plus brûlants un visage de glace, exècre-t-il les mêmes défauts, si c'est un autre, plus jeune, ou plus naïf, ou plus sot, qui les exprime ! 

(プルースト「囚われの女」)



…………


ニーチェ、プルースト、ボードレール、ランボーが流行の波に流されず生き延びたのは、彼らの無私な残酷さ、悪魔的な鋭利さ、そしてその毒舌の惜しみなさのおかげである。作品を長続きさせ、時代遅れにさせないのは、その凶暴さである。根拠のない主張だって?福音書の威信を考えてみたまえ。あの攻撃的で、毒に満ちた書物を。 
Si Nietzsche, Proust, Baudelaire ou Rimbaud survivent à la fluctuation des modes, ils le doivent au désintéressement de leur cruauté, à leur chirurgie démoniaque, à la générosité de leur fiel. Ce qui fait durer une œuvre, ce qui l’empêche de dater, c’est sa férocité. Affirmation gratuite? Considérez le prestige de l’Évangile, livre agressif, livre venimeux s’il en fût.

(エミール・ミハイ・シオラン『苦渋の三段論法』Emil Mihai Cioran, Syllogismes de l'amertume, 1952